東海道を歩く旅の第3回目。
前回の旅でトレッキングシューズで歩いたら帰りに足が鉛のようになっので、今日はまた、ナイキのエアフォース1を履いた。たぶん、もっとウォーキングに適したシューズがあるのだろうが、この靴のクッションはかなり魔力がある。オンラインショップで一目ぼれして注文してしまった3in 1のアウターは今日は間に合わなかった。雨の予報が出ていたので、ファイントラックのエバープレス フォトンの下にドラウトセンサーを合わせる。今の季節ならこれで寒くないけど、冬になったらこれでは過ごせないだろう。あまり選択肢のない初心者にはウェア選びが結構難しい。
乗り間違い
JRで品川まで行ってから、京急に乗り換える。今日の集合場所は立会川だ。時間に余裕があったし、前回の解散場所だったのであまり考えずに、来た電車に乗ったら、これが間違いだった。立会川で降りるには、普通列車かエアポート急行に乗らなければいけなかったらしいのだが、私の乗ったのは快特だったようで、立会川を通り過ぎて京急蒲田まで一気にすっ飛んで行った。駅が10個くらいあるのに、10分もかからなかった。すごい速さだ。時速何キロ出ているんだろう。普通列車に乗り換えて立会川まで5個戻るのにも10分くらいかかったので、結局10時の集合時間ギリギリになってしまった。
慣れない路線を使うときはちゃんと調べてから乗りましょう。
浜川砲台
マスクをかけた二十歳の坂本龍馬の銅像の前を通り過ぎて、区立新浜川公園まで歩く。今日の挨拶とストレッチは、復元された大砲を見ながら。ここは、ペリーの再来航の際に土佐藩が急ごしらえした浜川砲台跡とのことだ。大砲は「ホーイッスル砲」というだそうだ。ホーイッスル砲ってなんだ?ググってみたら、榴弾砲とも言うらしい。
榴弾砲(りゅうだんぽう、りゅうだんほう)は、 火砲(大砲)の一種。基本の定義は同口径のカノン砲(加農砲・カノン・加農)に比べて砲口直径(口径)に対する砲身長(口径長)が短く、低初速・短射程であるが軽量でコンパクト、高仰角の射撃を主用する(定義)。しかしながら、概ね冷戦後の現代は火砲の進化(榴弾砲の長砲身化)による砲種の統廃合(榴弾砲の統一)により、榴弾砲とカノン砲の区別は無くなっている(歴史)。旧日本陸軍による呼び名はりゅうだんぽう。
ウィキペディア
ストレッチが終わると、目の前の土手に上がった。勝島運河の土手だ。「つり船小林」と看板をかけた船宿の船着き場やそこに泳ぐ鴨、向うに立ち並ぶビルのコントラストを眺めながら、江戸時代の大森海岸の名産などについての話を聞く。江戸幕府開幕後50年からこの一帯で海苔の養殖が始まったが、大森海苔ではなく、「浅草海苔」というブランドで売られていたのだそうだ。
浜川橋(涙橋)
浜川橋を渡る。ここは別名涙橋と呼ばれている。橋のたもとに高札のような木製の案内板がある。
浜川橋 立会川が海に注ぐこの辺りの地名の浜川から名付けられたこの橋は、またの名を「涙橋」ともいいます。
この橋が架けられたのは、徳川家康が江戸入場後の一六〇〇年頃と思われます。現在の橋は、昭和九年(一九三四)に架け替えられたものです。涙橋の由来 慶安四年(一六五一)、品川にお仕置場(鈴ヶ森刑場)が設けられました。ここで処刑される罪人は、裸馬に乗せられて江戸府内から刑場に護送されてきました。この時、親族らがひそかに見送りにきて、この橋で共に涙を流しながら別れたということから、「涙橋」と呼ばれるようになりました。平成十三年三月三十日
品川区教育委員会
涙橋から刑場までは思ったより距離がある。当時の東海道はこの辺りの海岸線の松並木に沿っていて、景勝地であったそうだ。鈴ヶ森の浜を通る大名行列の浮世絵をガイドの先生が見せてくださる。
鈴ヶ森刑場
鈴ヶ森の刑場は、そんな東海道に面していた。江戸に出入りする人々にへの見せしめのためだという。刑場跡に到着すると、やはり何となく不気味な気がしてしまう。「南無妙法蓮華経」と髭題目が彫られた大きな石碑その他いくつかの石碑が立てられている。脇には磔の柱を立てた四角い孔と火炙りの鉄柱を立てた丸い穴が磔台、火炙台として保存されている。説明板の文字も何だか不気味な迫力を醸し出している。
ガイドの先生が、当時の極刑の種類を説明してくださった。
最も軽いのは『下手人』で、受刑後に家族による埋葬が許されていた。次が『死罪』で、刀の試し切りも兼ねていたそう。この罪に問われた罪人は小伝馬町にある牢屋敷に入れられていた。次が『火罪』で、15歳以下の罪人には酌量があった。放火の罪によりここで火炙りになったことで有名な八百屋お七は、奉行の温情にもかかわらず自分が16歳だと正直に伝えてこの刑を受けたという話が伝わっている。その次が『獄門』。時代劇でよく聞く「打ち首獄門」のことだ。首は鈴ヶ森か小塚原の刑場に3日間晒された。その次が『磔』。槍で30回突かれた後、3日間晒された。そして『鋸引き』。主に反逆罪を犯した罪人に課せられたそうだ。(グロテスクなのでこれ以上の説明は省略。)
刑場の向かって右手には、大経寺というお寺がある。改修中だったが、ここで受刑者の供養を行っていたようである。
鈴ヶ森という地名の由来は、次に訪れた磐井神社にあった。
磐井神社
大田区文化財 磐井神社 式内社と呼ばれる古い格式をもつ神社である。『三代実録』によれば貞観元年(八五九)「武蔵国従五位下磐井神社官社に列す」とあり、この神社を武蔵国の八幡社の総社に定めたといわれ、また平安時代(十世紀)に編纂された『延喜式』の神明帳に記載されている。
昭和四十九年二月二日指定 大田区教育委員会
別名、鈴森八幡宮とも呼ばれ、当社の由緒書によれば、江戸時代には、徳川家の将軍も参詣したことが記されている。
万葉集の「草陰の荒藺の崎の笠島を 見つつか君が山路超ゆらむ」の歌にある笠島とは、ここの笠島弁天を指したものという説もある。
これだけでもう色々難しい。延喜式、学校で習った気はするがさて何だったか全く覚えていない。平安時代の法典で、その中の神名帳とは、国から幣帛を受ける「官社」に指定されていた全国の神社の一覧表だそうだ。「荒藺の崎 」は「あらいのさき」と読む。これは難しい。(藺草はいぐさの事だそう)だが、この説明を読んでも、何のことかわからないのが残念だ。
磐井神社の境内の狛犬には小獅子が計六匹いるので、子宝、安産、家内円満の象徴として親しまれているそうだ。また境内の外にある井戸は「磐井」と呼ばれ神社の名前の由来となっている。当時、この井戸の水を飲んで清水と思う人は心が正しく、しょっぱいと感じた人は心が貧しいと言われたそうだ。海が近いので汽水だったのだろうか。
またこの神社には、仲哀天皇(第14代)のお后、神功皇后の宝物で、鈴ヶ森のという地名の由来となった「鈴石」が置かれている。打つと鈴のような音がするという。社務所の中に祀られ、通常は公開されていないようだが、ツアーだからか、見せていただいた。離れて拝見しただけなので、鈴のような音を聞くことはできなかった。
美原通り
磐井神社を出てなおも15号線を行くと環七が横切っている。15分ほど歩いて旧東海道に入る。『三原通り(大田区の旧東海道のうち 南、中、北原をまとめてこう呼ぶ)』という石の道標があるが、地図を見ると現在は美原通りという名前がついているようだ。この商店街は、店の看板や通りに面した側のデザインを江戸風につくることになっているそうだ。シャッターに帆かけ舟や茶屋や浮世屋が一面に描かれていたり、歩道に置いてあるベンチ代わりの石に通り沿いの石の椅子にも当時の名産や風物が描かれている。海苔の養殖の様子や和中散、麦藁細工のたぬき、カエル他、様々な絵が描かれていて目を楽しませてくれる。道幅は当時と変わらないそうだ。
今日のランチは、東海道から少し入ったところの「ふじ池」で、海の近くということからか、お刺身、帆立煮、天ぷら、鯖の塩焼きなどの定食をいただいた。
昼食後、小雨がパラついてきた。東海道沿いに、あべ川餅で有名な『餅甚』という老舗の和菓子店がある。創業は享保元年(一七一六)だそうだ。ふたたび15号線に出る。道路の標識に「横浜18㎞ 川崎5km」と出ているのを見て、ああ日本橋から随分来たなという感じがする。
梅屋敷
少し歩くと梅屋敷に出た。きれいに整備された公園である。ここには江戸時代、茶屋が置かれ、道中の常備薬であった和中散が売られていたところで、数百本の梅が植えられていた名所だそうだ。明治天皇のお気に入りの場所でもあった。
明治天皇と梅屋敷
大田区
梅屋敷は、明治元年(一八六八)から明治三十年(一八九七)の間に天皇の九度の行幸がありました。
天皇はことのほか梅屋敷の風致を好まれ、明治六年(一八七三)三月六日のご観梅のときには小梅一株をみずからお手植えなされ、この梅は仙粧梅と称されて後に人々に愛されたといわれています。その後昭和八年(一九三三)に史蹟として保存指定を受け、昭和十三年(一九三八)に東京市へ寄付、さらに昭和二八年(一九五三)に大田区に譲与され、現在に至っています。
また、公園の出口付近に「距日本橋三里十八丁」と彫られた里程標もある。
里程標(復元)
大田区
昔、梅屋敷山本家の門の横に自然石の里程標の石碑がありました。その高さは一メートルほどでその表面には「距日本橋三里十八丁 鎌田村 山本家」と刻されていたと伝えられています。
木戸孝允、伊藤博文らが梅屋敷で新年宴会を開いた際、二人が合作した一幅中の木戸孝允の画にも描かれていました。戦後里程標は姿を消しましたが資料をもとに復元しました。
ガイドの先生の説明によれば、一里を三十六町と定めたのは織田信長だと言われているそうだ。どうやって距離を測ったのかと思ったら、一里の計測の仕方は、一時間(半時)歩いた距離、ということで人によって、地形によってバラバラだったようだ。後に徳川家康の命で東海道に一里塚が置かれることになった。
メタセコイア
15号線に沿って京急蒲田の駅が見えて来る。朝下車した駅だ。その先に、高い木の立ち並ぶ場所がある。メタセコイアだ。この木は化石として日本で発見されたセコイアの変種で、絶滅したものと思われていたが後に中国に自生していることがわかった。1949年にアメリカの研究者から日本の皇室に挿し木や種子が贈られた。メタセコイアは、化石を発見した三木茂氏の命名だが、昭和天皇により、「曙杉」の和名がつけられれているが、杉の仲間ではないそうだ。
メタセコイアは我が家の近くにある窪地にある仙川に沿って立ち並んでいる。四季によって移り変わる木立の景観が素晴らしい。特に、葉を落とした冬木立が印象的で、郷愁と畏敬と織り交ざった不思議な感覚を覚える。ガイドの先生はその姿を「レースのような美しさ」と表現された。やはり誰の目にも美しい冬の風景だったのだと少し感激する。私が今の家に引っ越した20年ほど前は、冬になると我が家の庭にうっすらと積もる、レンガ色の小さな小さな落ち葉の正体がわからず首を捻っていた。紅葉が終わり、200メートルほど離れたところから風に運ばれて来たメタセコイアの落葉だと気づいたのはごく最近だ。
六郷神社
雑色(ぞうしき)の駅を過ぎて、六郷神社に到着する。享保四年(一七一九)建立の三元社流れ造りで、誉田別尊(ほんだわけのみこと・応神天皇)とある。古くからの八幡宮で、一帯の鎮守として大事にされてきたそうだ。今でも一月七日には流鏑馬、六月に獅子舞が奉納されるという。ここには頼朝が寄進した手水石、梶原景時寄進の「神橋」の遺構などがある。これから向かう六郷橋の親柱も保存されていた。ようやく東海道らしさを感じる松の木にもお目にかかることができた。江戸名所図会によれば、六郷八幡宮を出たところに一里塚が記されているということで、その地点に立ってみるが、場所は「このへん」というだけで、当時の面影は残っていなかった。
六郷の渡し
さていよいよ、本日のメインイベント、六郷の渡し跡に辿り着く。多摩川の下流を六郷川と呼ぶそうだ。土手を上がると広い河川敷で少年たちが野球の試合の真っ最中。対岸には印象的な高いビルが三つ並んでいる。マンションだろうか。
六郷川には慶長五年(1600)に家康が200×9mの御公儀橋を架けたが、元禄元年(1688)洪水で流された。その後は大正十四年(1925)に鉄の橋が架けられるまでの約240年の間、ここは舟渡しだったのだという。船賃は、武士や有力者は無料、庶民は江戸後期の頃で12文だった。1文=約12円として、今のお金で150円弱になる。
六郷川の歩道を歩いて渡る。橋の中ほどでこの旅で初めて、県を越えて神奈川県川崎市に入る。多摩川の川幅は広く、水量も豊かで広々としている。橋の下の対岸を川に沿って赤い電車が走っている。川崎大師への足として京急川崎駅から2キロほど敷設された京急大師線だ。終点は小島新田。四つ角に『万年横丁 大師道』の道標が立っている。川を渡り終えたところから川崎宿が始まるようで、江戸方の見附は置かれていなかった。その先に奈良茶飯で有名な『万年屋』の様子を描いた江戸名所図会を配した川崎市文化財団の案内板がある。それによると文久三年(1863)当時、川崎宿には旅籠が62軒あり、その他様々な店が合計369軒も立ち並んでいたそうだ。
奈良茶飯 万年屋
万年屋跡
東海道五十三次 3立会川~六郷の渡し~川崎
川崎宿入口にあった万年屋の奈良茶飯と新田屋のハゼ料理は名物だった。万年屋は一膳飯屋だったが、江戸中期に奈良茶飯が評判になり繁盛し、旅籠を兼ねる大店となった。奈良茶飯は、米に黒豆、小豆、栗等を入れて焙じ茶で炊き、お茶漬けのようにして食べるもので、奈良の東大寺や興福寺で食べられたので、奈良茶飯の名が付いた。奈良茶飯に豆腐汁、煮しめ等をセットにして38文(千円位)だった。
江戸後期には大名も万年屋で休憩するようになり、本陣をも凌ぐ様になった。安政4年(1857)アメリカ領事ハリスは条約締結を求めて、下田から江戸に向かった。川崎で本陣に着いたが「清潔でない」と、宿を万年屋に替えさせた。ハリスは「清潔で気持ちの良い宿」とご機嫌だったという。
クラブツーリズム講師会 大井保明・楠窪眞一作成
田中本陣
川崎宿に二つある本陣のうちの一つ、田中本陣の当主、田中休愚は地元の名士中の名士であったそうだ。ひっ迫する宿場の財政を立て直すため、幕府に掛け合って六郷の渡しの経営権を取得したことで、川崎宿を支えた。この功績から後に徳川吉宗によって幕府に登用され、多摩川などの治水を担当したという。田中本陣跡は工事中で更地にされていた。
東照
街道沿いに、奈良茶飯風おこわを提供している『東照』というお店がある。交通系ユーチューバーのスーツ君が、自転車で東海道を走破する動画の中で、ここで食事をしていた。食事処というより和菓子屋のようだが、美味しそうだ。ぜひ入ってみたかったが、残念ながら通り過ぎる。東海道かわさき宿交流館に立ち寄ったら、ここでも奈良茶飯セットが売られていた。
川崎駅近くに、中の本陣(惣兵衛本陣)跡と、問屋場跡の案内板と道標がある。これで本日の旅のスポットはほぼ終わったが、最後に大変意義深いお寺を訪れた。
宗三寺と飯盛女の供養塔
史跡東海道川崎宿 宗三寺
川崎市
中世前期、この付近は「川崎荘」と呼ばれる一つの地域単位を構成していたが、その時代荘内に勝福寺という寺院があり、弘長三年(一二六三)在地領主である佐々木泰綱が中心となり、五千人余りの浄財をあつめて梵鐘の鋳造が行われた。勝福寺はその後退転したようであるが、宗三寺はその後身とみられ、戦国時代、この地を知行した間宮氏が当時を中興している。
『江戸名所図会』に本尊釈迦如来は、「一尺ばかりの唐仏なり」とあるように、本尊はひくい肉髷、玉状の耳朶、面長な顔、腹前に下着紐を結び、大きく掩腋衣をあらわす中国風の像である。今、墓地には大阪方の牢人で、元和元年(一六一五)川崎に土着した波多野伝右衛門一族の墓や、川崎宿賃座敷組合の建立した遊女の供養碑がある。
子供の頃から大好きだった東海道中膝栗毛を読むと、飯盛女がユーモラスに描かれている。表向きは呼び名の通り宿の客に給仕をする女中のことである。しかし子供の頃はまったく思いもよらなかったことだが、彼女たちの大部分は身売りされ娼婦として働いていたのだという。東海道の宿場の中で、内藤新宿と品川宿は江戸の男たちの遊里でもあったようだ。江戸時代の娼婦は幕府の定めた遊郭の中でのみ営業を認められていたが、飯盛女たちの営業は黙認されていた。身寄りがなかったり、貧しい家からこれらの宿場に奉公に出された若い女性たちは、働けるだけ働かされたのち、健康を害して満足な手当ても受けられずに亡くなった後は、墓も立てられず投げ込み寺などに捨てられてしまった。
今も昔も性産業には目をそむけたくなるような残酷な側面が付きまとう。寺の背景にビルと走る赤い京急を見ながら宗三寺の裏手に回ると、きれいに咲いた赤い椿の下にそんな彼女たちの菩提を弔う供養塔があった。昭和六十三年(1988)、川崎今昔会によって建てられたそうだ。
飯盛女たちの苦悩は知る由もないが、彼女たちを想う人々が現代にいることとを知り、図らずも供養塔に手を合わせることができた。このお寺を旅の訪問地に組み入れたクラブツーリズムさんに感謝したい。
本日の解散場所はJR川崎駅。ここからJR東海道線に乗った。ものすごいスピードで走るので思わずスピードメーターではかったところ、時速108キロ出ていた。
10:00 立会川駅出発
10:05 区立新浜川公園
10:30 涙橋(浜川橋)
10:40 鈴ヶ森刑場跡
11:07 磐井神社
11:30 昼食(藤、ふじ池)
12:35 出発
13:00 聖跡鎌田梅屋敷公園
13:30 京急蒲田 トイレ休憩
13:45 メタセコイアについて勉強
14:15 六郷神社
14:39 六郷土手 到着
14:45 六郷川を渡る
14:50 橋の上で神奈川県に入る
15:00 川崎宿到着
15:10 田中本陣跡
15:15 東海道川崎宿交流館
16:00 史跡 宗三寺
16:15 JR川崎駅
16:20 次の場所を確認して解散
歩いた距離:約15㎞
歩 数:約20,000歩
消費カロリー:約600kcal