Kei通信

なるべく健康、なるべく自然体。

東海道を歩く旅#6 保土ヶ谷から戸塚へ

今回はお天気に恵まれた。気温は21℃。歩いていると汗ばんでくる。 
東京駅発9時少し過ぎの横須賀線に乗る。保土ヶ谷までは7駅。35分。この路線は一駅の間隔が長い。

保土ヶ谷宿は、子供の頃に「東海道中膝栗毛」を読んで、一番記憶に残っている宿場だ。
白粉で真白に塗った顔で、道の両側から旅人に声をかけ、袖を引っ張る元気のよい客引き女のイメージが印象的だったからだと思う。それで、「保土ヶ谷」という地名を聞くといつも、漠然と旅の空に想いを馳せた。客引き女たちの前掛けに紺絣の模様が入っているのは、昔はこの地を帷子の宿といい、織物の産地だったからだそうだ。あらためて地図をみれば、思っていたよりずっと近いところに保土ヶ谷は位置している。

弥次郎兵衛
 おとまりは よい程が谷と留め女 戸塚前(とっつかまえ)ては離さざりけり

助郷会所跡

保土ヶ谷駅の西口のロータリーを越えた先にある旧東海道に入ると保土ヶ谷駅西口商店街となり、すぐに、保土ヶ谷区の「助郷会所跡」の標識が建ててある。

助郷村々の人馬を手配するため設けられたのが助郷会所です。

歴史の道 

問屋場跡

駅周辺は保土ヶ谷宿の要衝らしく、助郷会所跡の案内標識から2,3分歩くと今度は問屋場跡がある。

問屋場 
宿場の公的な業務のうち、幕府の公用旅行者や大名などの荷物運搬(人馬継立)、幕府公用の書状等の通信(継飛脚)、大名行列の宿泊の手配などを担っていたのが問屋場で、宿場の中でも最も重要な施設のひとつです。宿場ではこの業務をつとめるのに十分な数の人足と馬を用意するよう定められrていました。問屋場には問屋(といや)を筆頭に、年寄(としより)、帳付(ちょうづけ)、馬指(うまさし)などの宿役人が詰めていました。

助郷 
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員することを助郷、指定された村を助郷村といいます。助郷は東海道が整備されてから交通量が増加してきた17世紀後半頃に次第に制度化されていきました。享保10年(1725年)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は全部でおよそ40か村、現在の保土ヶ谷区内のみならず、旭・西・中・南・港南・磯子・戸塚等の各区域に及びました。こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。

高札場 
高札場は、幕府や領主の最も基本的な法令を書き記した木の札=「高札」を掲示した施設です。通常、土台部分を石垣で固め、その上を柵で囲んだ内部に高札が掲示され、屋根がかけられています。宿場の高札場には人馬の駄賃や宿代などを記した高札が掲示されており、宿内の中心地に設置されました。

平成16年3月 保土ヶ谷区役所

高札場跡

問屋場跡に続いて、高札場跡もある。保土ヶ谷駅西口商店街の突き当たりは本陣跡になっているようだが、すごい。歴史満載の商店街だ。

宝暦一三年(一七六三)年に普請された保土ヶ谷宿の高札場は幅二間半(約四.五メートル)高さ一丈(約三メートル)の規模でした。

歴史の道 戸塚区役所

金沢横町道標

さて、ここまで跡地の案内板だけだったのが、ついに江戸時代の遺跡のお出ましとなった。

横浜市地域有形民俗文化財 金沢横丁道標四基
 平成元年十二月二十五日 登録
 この地は、旧東海道の東側で、金沢、浦賀往還への出入口にあたり、通称「金沢横町」と呼ばれました。金沢・浦賀往還には、円海山、杉田、富岡などの進行や観光の地が枝道にあるため、道標として四基が建立され、現在残っています。
 四基の道標は、それぞれ次のとおりです。(右側から番号を付す)
①円海山之道[天明三年(一七八三)建立]
 左面に「かなさわかまくらへ通りぬけ」と刻されています。
 建立者は保土ヶ谷宿大須賀吉左衛門です。円海山は「峯のお灸」で有名でした。
②かなさわ、かまくら道[天和二年(一六八二)建立]
 左面に「ぐめうし道」と刻されています。
③杉田道[文化十一年(一八一四)建立]
 正面に「程ヶ谷の枝道曲がれ梅の花 其爪」と刻されています。句碑を兼ねた道標は珍しく、また作者の其爪は江戸の人で河東節の名家の一門です。
④富岡山芋大名神社の道[弘化二年(一八四五)建立]
 建立者は柳島村(現茅ヶ崎市)の藤間氏。芋明神は、富岡の長昌寺で、ほうそうの守り神として信仰を集めていました。
平成三十年三月

横浜市教育委員会
金沢横丁道標 四基

東海道線、横須賀線、湘南新宿ラインなどが走る東海道踏切を越える。ひっきりなしに目の前を列車が通過するので、なかなか踏切が上がらない。ようやく電車が切れると、踏切のむこうはゆるやかな下り坂になっていて、突き当たりに古い建物の赤い屋根が見える。保土ヶ谷宿本陣(苅部本陣)跡だ。

苅部本陣跡の遠景

脇本陣(大金子屋)跡

旧東海道は、苅部本陣の前で東海道に合流する。苅部本陣は道路の向う側なので渡る前にまず、京方に2分ほど進むと脇本陣の案内標識がある。

脇本陣(大金子屋)跡 
天保年間の大金子屋(八郎右衛門)の規模 
建坪一一九坪(約393㎡)間口七間(約12.7m)
奥行一七間(約30.9m)室数一四 玄関付

保土ヶ谷 歴史の道 

苅部本陣跡

さて、道路を少し戻って信号で向う側にわたると苅部本陣だ。
表札に軽部とあるのだが、明治天皇の行幸の際、役人が間違えて軽部と書きつけに記してしまった。それ以降苅部家は軽部家と表記する様になってしまったのだそうだが、これは苅部さんにとってさぞ憤慨モノだったのではないかと思う。

苅部本陣

本陣跡 
 慶長6年(1601年)正月、東海道の伝馬制度を定めた徳川家康より「伝馬朱印状」が「ほとかや」(保土ヶ谷町)あてに出されたことにより、保土ヶ谷宿が成立しました。
 東海道を往来する幕府の役人や参勤交代の大名は、宿場に設置された本陣に宿泊しました。保土ヶ谷宿の本陣は、小田原北条氏の家臣苅部豊前の守康則の子孫といわれる苅部家が代々つとめています。同家は、問屋・名主を兼ねるなど、保土ヶ谷宿における最も有力な家で、安政6年(1859年)に横浜が開港する際、当時の当主清兵衛悦甫が総年寄に任ぜられ、初期の横浜町政に尽くしました。明治3年(1870年)に軽部姓に改称し、現在に至っています。
 本陣が混雑した際、幕府の役人や参勤交代の大名は脇本陣に宿泊しました。保土ヶ谷には藤屋・水屋・大金子屋の3件の脇本陣がありました。 

平成15年3月 保土ヶ谷区役所

脇本陣(藤屋)跡

苅部本陣のすぐ先に脇本陣(藤屋)跡がある。

脇本陣(藤屋)跡 
天保年間の大金子屋(八郎右衛門)の規模 
建坪一一九坪(約393㎡)間口七間(約12.7m)
奥行一七間(約30.9m)室数一四 玄関付

保土ヶ谷 歴史の道

脇本陣(藤屋)跡の先に脇本陣(水屋)跡の案内標識がある。ほんとに本陣通りだ。案内パネルも並んでいる。

保土ヶ谷宿の宿泊・休憩施設
本陣・脇本陣
 公用の宿泊・休憩施設として参勤交代の大名などに利用されたのが本陣(1軒)脇本陣(3軒)で、明治3年の宿駅制度廃止まで続いていました。しかし、その格式と引き換えに制約や出費も多く、経営は必ずしも楽ではなかったようです。
茶屋本陣
 正式な本陣に匹敵する規模と格式を持つ茶屋が上方見附付近にあり、「茶屋本陣}と呼ばれていました。苅部本陣を利用しない大名が休息するほか、参勤交代大名の出迎えもしていたとされています。
旅籠屋
 はじめは「木賃宿」といって食事を出さず、旅人が持参した食糧を自炊する薪を提供するだけでしたが、元禄(1690年代)のころから食事や酒を提供する旅籠屋も増えてきました。保土ヶ谷宿の旅籠屋の数は寛政12年(1800年)には37軒でしたが、天保13年(1842年)には69軒となっています。
茶屋 
 往来する旅人が休息するために宿内には茶屋がありました。文政7年(1824年)の保土ヶ谷宿には33軒の茶屋があり、金沢横町の茶屋七左衛門が茶屋惣代でした。

平成16年3月 保土ヶ谷区役所 歴史の道

旅籠屋(本金子屋)跡

藤屋跡から100mほど行ったところにある本金子屋跡は、明治時代の建造物が残っていて「まちかど博物館」として保存されている。

まちかど博物館 旅籠 本金子屋跡
旅籠の面影を残す建造物  館長 金子 勇
■本金子屋の歴史■ 
 本金子屋は、江戸時代に旅籠として栄えました。
 明治二年に建替えられた現在の建物も、東海道沿いに建つ旅籠の面影を残しています。
 過去に国道1号が7mほど拡幅される前は、現在の母屋の前に大名門と前庭がありました。現在、当時の大名門は建物正面の外壁として使われています。
 敷地内には本格的な日本庭園(非公開)があります。これは戦後に造られたものですが、四国の石で造られた燈籠や、大正天皇がお忍びで旅をしたときにお茶を飲むのに休まれたといわれている石などがあります。

旅籠屋(本金子屋)跡 
天保年間の本金子屋(伝左衛門)の規模
建坪七九坪(約二六一㎡)間口七間(約一二.七m)
奥行き一一間半(約二〇.九m)室数一三

保土ヶ谷区 歴史の道

旅籠屋(本金子屋)跡の案内標識

茶屋本陣跡

本金子屋跡から100mほど、保土ヶ谷宿の上方見附跡の手前、東海道の京方に向かって右側に茶屋本陣跡がある。

元治元年(一八六四年)の茶屋本陣(九左衛門)の規模建坪六三坪(約二〇八㎡)間口一〇間半(約一九.一m)奥行六間(約一〇.九m)室数八 門構付

歴史の道

一里塚(復元)

茶屋本陣跡の少し先、東海道を挟んだ反対側には、復元された一里塚と上方見附がある。当時のものよりだいぶ小さく造られているようだ。それでも現代の私たちが見れば、ほほうと感心してしまうには十分なのだから、当時の決まり通りの寸法でつくったならインパクトは如何程だろう。

一里塚跡 
 街道の距離の目安として、一里ごとに設置されたのが一里塚です。一里塚は、街道の両側に土盛した小山を作り、その上に遠くからでも目立つような榎など木々が植えられていました。この付近にあった一里塚は、江戸から八番目のものです。
上方見附跡 
 保土ヶ谷宿の京都(上方)側の出入口となる上方見附は、保土ヶ谷区郷土史によれば外川神社の前にあったとさています。見附は、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしており、「土居」とも呼ばれています。この上方見附から江戸方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれています。

平成30年3月 保土ヶ谷区役所
一里塚と保土ヶ谷宿上方見附跡(復元)

外川神社

上方見附と今井川を挟んだ反対側に外川神社がある。江戸時代から出羽信仰が盛んであったが、幕末に羽黒山麓の外川仙人大権現の分霊を勧請した神社で、その霊験は大変なものだと言われていたそうだ。

松並木

東海道保土ヶ谷宿の松並木と復元事業
保土ヶ谷宿の松並木 
 我が国に於ける街道並木の歴史は古く、遠く奈良時代まで遡りますが、全国的な規模で取り組まれるようになったのは、江戸時代に入ってからです。慶長9年(1604)、幕府は諸国の街道に並木を植えるよう命じました。以来、夏は木陰を作り、冬は風説を防ぎ、植樹帯は旅人の休息場所になることから、官民挙げて大切に保護されました。
 保土ヶ谷宿の松並木は、この付近から境木まで3㎞あまり続き、広重や北斎などの浮世絵にも度々描かれました。その後、昭和初期までは比較的良好な状態で残されてきましたが、時代と共に減り続け、旧東海道の権太坂付近を最後に、現在では見られなくなりました。
松並木、一里塚、上方見附の復元事業 
 区民が主体となって結成した「東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会」の提案が、横浜市の事業である第1回「ヨコハマ市民まち普請事業」に採択され、平成19年2月に、国道1号拡幅工事と今空間井川の河川改修工事により創出される公共空間において、旧東海道を象徴する松並木や一里塚の復元を行いました。
 「上方の松原」と呼ばれていた今井川に沿った約300の区間に松などを植樹しました。
 明治時代のはじめ、宿場制度の廃止に伴って姿を失った一里塚は、この付近(現在の車道上)にありました。場所の制約から文献にあるような「五間(約9m)四方」に相当する大きさを築くことができませんでしたが、塚の上には昔のように榎を植えました。

 平成21年3月には上方見附を復元し、松並木や一里塚と併せて宿場時代の再建に努めています。
 「東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード実行委員会」は、平成19年4月より「東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード水辺愛護会」と名を改め、立派な松並木となるよう活動を行っています。
ぜひ東海道の松並木づくりにご協力ください。

令和元年12月 東海道保土ヶ谷宿松並木プロムナード水辺愛護会 
横浜市保土ヶ谷区役所

樹源寺

外川神社を出て、用水路か川か、細い流れに沿って1号線を進み、保土ヶ谷二丁目の交差点を右にそれて旧東海道に入る。100mくらい行くと右手に樹源寺がある。このお寺は戦国時代に焼けて廃寺寸前だったのを、苅部本陣の当主の妻が日蓮宗に帰依して身延山久遠寺の末寺として開山したお寺だそうだ。
広い庭園に錦鯉が泳ぎ、岩から流れ落ちる小さな滝などもあって、美しい風情のお寺だ。

樹源寺の先に「旧元町橋跡」があり、明治時代に東海道線の鉄道工事をする前は今井川がここで東海道を横切っていたと記されている。ということは、用水路かと思った流れは今井川なんだな‥と思いながらさらに進む。その先、元町ガードの交差点で、旧東海道は左に折れる。いよいよ、東海道の最初の難所、権太坂にさしかかる。

権太坂

権太坂道標

横浜市地域史跡 権太坂
平成十五年十一月四日 登録
 この辺りは、権太坂と呼ばれる東海道を江戸から西へ向かう旅人がはじめて経験するきつい登り坂でした。
 日本橋から四番目の宿場であった保土ヶ谷宿まではほぼ江戸湾沿いの平坦地でしたが、宿の西にある元町橋を渡ったあたりより、長く続く険しい登り坂となります。
 『新編武蔵風土記稿』に、名前の由来は、道ばたの老齢の農民に旅人が坂の名を聞いたところ、耳の遠いこの老人は自分の名を聞かれたと思い、「権太」と答えたため、とあります。また、坂の上から目の下に見える神奈川の海は大変美しかった、とあります。
 旅人にとっては印象深い場所になり、浮世絵などにも描かれる保土ヶ谷宿の名所ともなりました。
 平成十六年三月

横浜市教育委員会
上から見た権太坂

投げ込み塚

投込塚之跡 
此の地は権太坂投込塚と称し旧東海道品濃坂につぐ難所であって往時旅人の行倒れせし者多く之を埋葬せる處也
隅々當地区開発に当り多数の白骨を発掘現在平戸町東福寺境内にて再埋葬供養碑を建て、之が菩提を弔ひ在者也
 昭和三十九年四月建立

投込塚之跡

境木立場跡

歴史の道 境木立場跡
立場茶屋
 宿場と宿場の間に、馬子(まご)や人足(にんそく)の休息のためなどに設けられたのが立場です。中でもここ、境木の立場は権太坂(ごんたざか)、焼餅坂(やきもちざか)、品濃坂(しなのざか)と難所が続くなか、見晴らしの良い高台で西に富士、東に江戸湾を望む景観がすばらしく、旅人が必ず足をとめる名所でした。また、茶屋で出す「牡丹餅(ぼたもち)」は境木立場の名物として広く知られており、たいへん賑わったということです。「保土ヶ谷区郷土史(昭和13年刊)」によると、こうした境木の立場茶屋のなかでも特に若林家には明治中期まで黒塗りの馬上門(ばじょうもん)や本陣さながらの構えの建物があったとされ、参勤交代の大名までもが利用していたと伝えられています。

平成16年3月 保土ヶ谷区役所
武相国境之木 道標

境木地蔵尊

境木地蔵尊

保土ヶ谷観光名所 境木地蔵由来 
 ここ境木は武蔵相模の国境で江戸時代には そのしるしが建られていて 境木の地名はそれからおきたといわれています
 また境木は東海道中の難所であった権太坂を登りきった所にあり名産の牡丹餅を食べながら旅の疲れを休めることができて大変賑ったとも伝えられています
 境木の名を有名にしたものは地蔵で江戸の人達にも崇敬され 今でも境内に寄付された燈籠が残っています
 なお、子の地蔵には次のような珍しい伝承があります 即ちいつの頃か相模国鎌倉腰越の海辺に漂着した地蔵が土地の漁師の夢枕にたち「俺は江戸の方へ行きたい運んでくれたら この海を守ろう」と告たので漁師達が江戸へ運ぶ途中 此の境木で動かなくなった為 村人達は地蔵を引き取り お堂を建てて安置したところ それからは村が繁昌したということです
 地蔵堂の鐘は明治になって野毛山の時の鐘に使用され横浜市民に大正の大震災まで親しまれました

平成元年十月四日 岩間町 見光寺

途中、創作和菓子を売る「菓匠栗山」さんに立ち寄る。
当時に由来する和菓子をお土産に買って帰るのは、この旅の楽しみのひとつだ。かわいいお地蔵さんの最中を買った。

菓匠栗山
境木おじぞうさん最中

焼餅坂

権太坂をえっちらおっちら登って来ると、今度は焼餅坂を下ることになる。

旧東海道 焼餅坂
旧東海道を戸塚方面に下るこの坂は「焼餅坂(別名:牡丹餅坂)」と呼ばれています。
武蔵国と相模国の国境にあたる権太坂と焼餅坂は、昔の旅人にとって日本橋を出発してから最初の難所でした。 
このあたりには、一服する旅人を目当てにした茶屋が並んでおり、坂の傍らで焼餅を討っていた事がこの坂の名の由来だと言われています。

焼餅坂

品濃一里塚

焼餅坂を下ると、また登り道になる。品濃坂だ。
「東海道中膝栗毛」では、品野坂というところにさしかかったあたりが武蔵、相模両国の境だと聞いた弥次郎兵衛が次のように詠んでいる。 
 たまくしげふたつにわかる国境 ところかわればしなの坂より

品濃一里塚 
 慶長九年(一六〇四)徳川幕府は、五街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。
 それと同時に、当時あいまいであった駄賃銭を決めるために、江戸日本橋を起点とした距離が判るように、明確な里程標が必要となりました。そのため街道の両側には、一里(約四キロメートル)ごとに五間(約九メートル)四方の塚が造られ、塚の上にはエノキやマツが植えられました。これが一里塚です。
 一里塚は、旅人にとって旅の進みぐあいがわかる目印であると同時に、塚の上に植えられた木は、夏には木陰をつくり、冬には寒風を防いでくれるため、旅人の格好の休憩所にもなりました。そのため、一里塚やその付近には茶店ができ、立場が設けられるようになりました。
 ここ品濃の一里塚は、日本橋から九番目の一里塚で、保土ヶ谷宿と戸塚宿の間に位置しています。旧東海道をはさんでほぼ東西に二つの塚があり、地元では一理山と呼ばれていました。東の塚は平戸村内に、西の塚は品濃村内に位置し、西の塚にはエノキが植えられていたようです。
 このように、今でも道の両側の塚がともにほぼ当時の形で残っている所は、神奈川県内でもこの一里塚だけであり、昭和四十一年には県の史跡に指定されました。

横浜市教育委員会 平成七年六月
品濃一里塚

提灯立場跡

 立場とは宿場間が遠い場合に、また峠などの難所に、休憩施設として茶屋などが設けられた場所です。立場が繫栄すると宿場と混同され、相の宿(あいのしゅく)と呼ばれました。
 この立場は上柏尾町提灯(ちょうちん)にあり、江戸からの道程において品濃坂の急坂を下りきったところで、戸塚宿まではあと一息の場所となります。

旧東海道 戸塚区役所

大山道道標

提灯立場から1キロちょっとくらいだろうか。柏尾の追分で東海道から右に折れたところに大山不動尊の赤い屋根が見える。ここは東海道から大山に行く場合の最初の追分であったらしい。

柏尾の大山道道標

大山不動尊 (横浜市地域史蹟・柏尾の大山道道標)
 大山には、大山阿夫利神社と追分不動尊が祀られており、江戸時代から広く関東一円の人々に信仰されて参りました。
 参拝者は、旧東海道から大山街道を利用して伊勢原に入り、大山参拝に向かいました。
 この旧東海道から大山街道への入口が柏尾町であり、大山詣での参拝者の安全と無事を祈願するため現在の追分不動尊が建立されました。
 柏尾の住人も、古来より雨乞いを祈願するため大山に参拝するのが恒例となっており、現在も継続されております。
 柏尾の歴史的文化の伝統を将来に残すために、毎年7月27日に祭礼を行っております。
 このような柏尾追分不動尊と大山道道標の歴史と伝統は、横浜市地域史蹟に残されております。

柏尾町内会

横浜市地域史跡 柏尾の大山道道標
平成元年十二月二十五日登録
 大山は、江戸時代から広く関東一円の人びとのあいだに信仰されていました。大山道はこうした参詣者の道で、旧東海道から大山への入口が柏尾です。
 大山道への道標は次の四基で、ほかに燈篭一基と庚申塔一基があります。
 ①寛文十年(一六七〇)の建立。建立者は柏尾村。五處の橋供養をかねます。
 ②正徳三年(一七一三)の建立。半跏の不動明王像(石造)を主体とします。
  建立者は柏木藤左衛門ほか。
 ③享保十二年(一七二七)の建立。建立者は江戸神田三河町の商人越前屋小一兵衛。
 ④明治五年(一八七二)の建立。建立者は下総葛飾郡加村、船大工鈴木松五郎。
 庚申塔は、延宝八年(一六八〇)、柏尾町施主拾五人により、燈篭は、元治二年(一八六五)、松戸宿の商人によって建立されたもので、大山信仰のひろがりが知られます。
 道標をふくめた六基は、近代になって現在地に集められたと考えられます。
 平成二年三月

横浜市教育委員会

首洗い井戸

そろそろ脚の疲れも溜まり、歩くのがつらくなってくる。大山不動尊の先で、1号線から左にそれて旧東海道に入り、さらに住宅地を行ったところに護良親王の首洗井戸がある。

由来 
柏尾の里は古来より北から南へと鎌倉道が通じる地にして皇統第六十九代後醍醐天皇の皇子護良親王を偲ぶ伝説を秘めたる里なり
元弘の昔天皇の理想の意に從い幾多の苦難を克服され武家政治を退け天皇親政の御代建武中興の偉業を成就され其の實りを念願せし皇子であらせられたが再び武家の陰謀にて建武元年十月京の都より鎌倉藥師祖師ヶ谷理智光寺に送られ幽閉の身と成れり
先に中納言藤原藤房卿は親王の有事を予期し諫言を残し朝廷を失踪し直に吉野郡十津川郷に〓(馬走)り親王に供奉せる数名の同族武将と共に変装して柏尾に潜入し親王を奪還に智謀を廻らし嚴に鎌倉の動行を窺いしもついに建武二年七月廿二日夜足利髙氏の下僕義博の刃に弑殺の悲運に至る郷士達は御首(みしるし)だけは渡すまじと格闘白刃の末に奪守し柏尾の里まで捧げ来りて清水で浄め四本の杭を打ち祀壇と成し平伏し供養す時に側女三位局南の方は深い悲しみの内に珠念され藤房卿の計にて東山道を京に向われたと聞く首洗井戸と併せ四っ杭谷戸と往古より傳え聞く地なり
 昭和六十二年三月十五日  會長 益田壽男 偲記

建武中興六百五拾年記念事業委員會 建立
護良親王 首洗井戸の碑
首洗井戸

戸塚宿江戸方見附

旧東海道に戻り、関東大震災を生き延びたという鎌倉ハムの倉庫を通り過ぎて五太夫橋で現在の東海道である戸塚道路(右へ行くと1号線、左へ行くと22号線)に合流する。我々は左の22号線へ進んで峠を下る。イオンスタイル戸塚店のところの交差点が「江戸見附前」という名前になっていて、その少し先に戸塚宿の江戸方見附跡がある。日本橋を発った当時の旅人の多くが一泊目の宿を取ったという、戸塚宿にようやく到着だ。弥次さん、北さんもこの戸塚宿の手前で日が西の山の端に近づいてきたので戸塚の駅に泊まろうと決め、急ぎ足になったようだ。本当に昔の人は健脚だ。現代人の我々は、それぞれ良いシューズを履いて栄養満点の食事をとり、15キロも歩いていないのにほぼ、ヨレヨレだというのに。

戸塚宿の成立は、慶長9(1604)年で、隣宿である藤沢、保土ヶ谷の宿が成立した慶長6(1601)年に遅れること3年でした。
 日本橋から数えて5番目の宿場町で、基点の日本橋からは 約10里(40㎞)の距離にあり、朝、江戸を発った当時の旅人の一番目の宿泊地として最適であり、さらに鎌倉への遊山の道、大山参詣の道の分岐の宿として大変な賑わいを見せていました。
 東海道宿村大概帳【天保14(1843)年頃】によると、宿内の人口は2,900人余、家数は613軒、本陣は2、脇本陣は3、旅籠は75軒と東海道五十三次の宿場の中では10番目に宿泊施設の多い宿場でした。
 戸塚区内では旧東海道が南北方向にまたがっており、全長約11.7㎞あります。その中で戸塚宿は、2つの見附跡に挟まれた約2.2㎞の範囲とされており、今も戸塚区の中心地としてにぎわっています。  

横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図 (戸塚区区役所)より

吉田一里塚跡

吉田の一里塚は明治に入りずいぶん早い時期に取り壊されてしまったようです。江戸から十番目の一里塚で、日本橋から約四十kmになります。昔は、これだけの距離を一日で歩いており、旅籠のある戸塚の町まで、大橋を渡ってあともう一息といった場所です。

旧東海道 戸塚区役所

古めや跡

おおはし

広重の「東海道五拾三次之内 戸塚 元町別道」に登場する古めやのあった場所に来た。柏尾川にかかる大橋は健在である。「こめや」はもち菓子屋だったようだが、今はその姿を留めるものはなかった。
ここから、妙秀寺に立ち寄って、このお寺に移設されたという、広重の絵に書かれた吉田橋(おおはし)脇の道標を見学したあと、この日は戸塚駅で解散となった。


10:00 保土ヶ谷駅前公園

10:21 助郷会所跡

10:28 保土ヶ谷宿 問屋場跡

10:32 保土ヶ谷宿 高札場跡

10:34 金沢横丁道標四基

10:42 脇本陣(大金子屋)跡

10:45 本陣跡

10:49 脇本陣(藤屋)跡

10:50 保土ヶ谷宿 街並の図

10:51 脇本陣(水屋)跡

10:59 旅籠屋(本金子屋)跡

11:03 茶屋本陣跡

11:05 一里塚跡 上方見付跡

11:08 外川神社

11:26 樹源寺

11:32 旧元町橋跡

11:40 道祖神

11:47 権太坂

12:06 投込み塚之跡

12:13 創作和菓子 菓匠栗山「境木最中」

12:26 境木立場跡

12:26 横浜旧東海道戸塚宿周辺散策案内図

12:28 境木地蔵尊

12:34 焼餅坂

12:41 品濃一里塚

12:50 ランチ

13:53 品濃坂上

13:55 品濃坂

14:14 提灯立場跡

14:35 柏尾の大山道道標

15:26 江戸方見附跡

15:45 吉田一里塚跡

15:47 古めや跡

15:44 日蓮宗 身立山 妙秀寺

16:00 戸塚駅


歩いた距離:約15㎞ 約21,000歩

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