今回は、東神奈川駅を出発して保土ヶ谷まで。
曇天だ。なかなかお天気に恵まれないのが残念。雨が落ちないのはありがたいけど。
神奈川宿歴史の道
神奈川宿には景勝地として知られた「袖ヶ浦」があり、海路と陸路の双方から人々が集まり栄えた宿場だったそうだ。日米修好通商条約により開港地となったため、各国の領事館が置かれて、その史跡が今も多数残っている。史跡にはおそらく横浜市が市の文化事業として展開していると思われる「神奈川歴史の道」のガイドパネルが置かれていて、街道歩きを楽しむ人々には大変わかりやすく、楽しい。
「神奈川宿歴史の道」は、当時の史跡を生かしつつ、道づくりと景観整備を新たに行い、神奈川宿を訪ね歩くことができる約4㎞の歴史の散歩道としたものです。神奈川宿の様子を示す陶画があったり、歩道や街路灯には青海波(せいがいは)のデザインが施されるなどの工夫を随所に見ることができます。また、歩道に設置された車止めには、浦島伝説にちなんで亀がデザインされており、これをたどりながら楽しく神奈川宿を訪ね歩くことができます。
てくてく東海道宿場探訪マップ
金蔵院
挨拶とストレッチを終え歩きだす。
まずは、東神奈川駅から15分ほど歩いて平安時代に創建された金蔵院へ。
金蔵院は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。『金川砂子』のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。かつては毎年一月に当院の住職がこの梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。
神奈川宿歴史の道
熊野神社
続く熊野神社は平安時代の創建で、金蔵院と同じ創建者であるが、神仏分離令により金剛院から独立したそうである。境内には嘉永年間の作である狛犬や「火防(ひぶせ)のイチョウ」と称されるご神木がある。このイチョウは幹が黒く焼け焦げた大きな洞がある。それでも再生し堂々と立っている。素晴らしい生命力だ。
ご神木 公孫樹 樹齢四百年(昭和四十八年 横浜市名木古木指定)
社務所
慶応四年(一八六八年)神奈川大火 昭和二十年(一九四五年)戦災に焼失したが見事に再生し 毎年秋にはギンナンがみのり、俗に「火防のイチョウ」として広く親しまれている
神奈川宿高札場(復元)
熊野神社を出て松並木を抜け10分くらい歩くと復元された高札場に出る。時代劇などで見ていたイメージとはちょっと違った。長細い屋根の下に数個の高札が掲げられて、前側を石の柵で囲うというスタイルだったようだ。
高札場 高札場は、幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれて、やがて姿を消しました。かつて神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にありました。その規模は、間口約5m、高さ3.5m、奥行き1.5mと大きなものでした。この高札場は、資料をもとに復原したものです。
神奈川宿歴史の道
成仏時(浄土宗)
高札場から東海道を北に逸れて5分ほどで成佛寺に着く。このお寺には「外國宣教師宿舎跡(横浜市史跡)」がある。また、浦島太郎の涙石と言われる波のような不思議な形状をしたきれいな石があった。潮が満ちるとその表面が濡れたようになるのだという。本堂は均整の取れたシンプルで静謐な佇まいである。
成仏寺
神奈川宿歴史の道
成仏時は、鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。安政六年(一八五九)の開港当初はアメリカ人宣教師達の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブランは庫裡に住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成させた。またブラウンは英語の教育に尽力し、ヘボンとともに聖書の翻訳も行った。
慶雲寺
成仏時からほどなく、これも浦島伝説で知られる慶雲寺がある。入口には「史跡 フランス領事館跡」の石碑も建っている。本堂では檀家の方の法要が営まれている最中で、そおっと静かに境内の浦島観世音のお堂を拝観する。扉上部の格子越しに中を覗くことができるのだが、扉にもお堂の中の全体の様子の写真が額縁に入れて架けられている。それによれば真ん中に「竜宮伝来 浦島観世音像(横浜市文化財)、左に「亀化竜女神(乙姫)の像」、右に「浦島太郎の像」のいずれも立像が安置されている。この観世音菩薩は、浦島太郎が乙姫から譲り受けたもののようである。お堂の前には石の標識が建っている。「勅願所」「父 浦島大夫 廟所 子 浦島太良 齢塚 當山在」と彫られている。齢塚とは浦島太郎の供養塔と言われる亀齢塚のことだろうか。山門前にもまた石塔があり「竜宮傳来 浦島観世音 浦島寺」と書かれたその柱を亀が背中の甲羅で支えているが、これが亀齢塚を指しているのか?謎のままこのお寺を後にした。
淨瀧寺(日蓮宗)
慶雲寺のすぐそばにある。近代的な山門の前に「史跡 イギリス領事館跡」の石柱が建てられている。
淨瀧寺
神奈川宿歴史の道
淨瀧寺は妙湖山と号し、日蓮宗に属す。文応元年(一二六〇)妙湖尼は、当時の政治の中心地であった鎌倉に向かう途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遇った。法尼は聖人の人格にうたれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。聖人が『立正安国論』を著作し、鎌倉幕府に献策した年でもある。また、開港当時はイギリス領事館に充てられた。
宗興寺(曹洞宗)・神奈川の大井戸
淨瀧寺を出て15号線に向かって少し行くと宗興寺の門前の神奈川の大井戸に出る。
神奈川宿の大井戸
この井戸は、江戸時代には東海道中の名井戸に数えられ、当時は宗興寺を「大井戸寺」と呼ぶほどで逢ったといわれている。江戸初期には神奈川御殿に宿泊する徳川将軍のお茶の水に充てられたと伝えられ、また、開港後には宗興寺に滞在したアメリカ人宣教医シモンズやヘボンもこの井戸水を使用している。また、この井戸の水量の増減によって翌日のお天気を知ることができると言われ、そのため「お天気井戸」とも呼ばれた。宗興寺とヘボン博士
神奈川宿歴史の道
曹洞宗宗興寺は、上の『神奈川駅中図会』では権現山の麓に描かれている。開港当時、アメリカ人宣教師で医師であったヘボン博士がここに施療所を開いた。これを記念する石碑が境内にたてられている。このヘボン博士は、「ヘボン式ローマ字」でよく知られ、日本で最初の和英辞典を完成し、聖書の翻訳なども行った。後に、明治学院を創設するなど、わが国の教育にも尽力した人である。
宗興寺にはヘボン博士施療所の石碑がある。6か月間の間に3,500人の患者を無料で診察したという。ヘボン博士は外科医のシモンズと共に近代医療の礎となり、後の県立十全病院の発展につながっていった。
史跡 神奈川台場跡
15号線を横切り、南へ10分ほど歩くと台場跡に出る。
神奈川台場跡
安政六年(一八五九)五月、幕府は伊豫松山藩に命じ、勝海舟の設計で海防砲台を構築した。当時の台場は総面積二万六千余平方メートル(約八千坪)の海に突き出た扇形で、約七万両の費用と工期約一年を要し、萬延元年(一八六〇)六月竣工した。明治三十二年二月廃止されるまで礼砲用として使われたが、大正十年頃から埋め立てられ、現在では石垣の一部を残すのみとなった。
神奈川宿歴史の道
跡地には「地図と絵に見る神奈川台場の歴史」の陶板があり、当時の台場の絵や地図、写真、来航した艦隊や黒船などが展示されている。浜から砲台までは東西に二本の平行した道路が扇形(コウモリにも見えるようだ)の小島のような台場に繋がっている。この台場は、権現山を削った土を盛って造成されたのだそうだ。大砲は16門設置されていたという。パネルを見ながら、当時の形に想いを馳せてみるが、今では台場の沖も埋め立て地となって、横浜市の中央卸売市場や商業施設の立ち並ぶエリアとなっている。
神奈川本陣跡と青木町本陣跡
東海道(国道15号線)に戻る。二つの本陣跡は15号線を挟んで案内板を残すのみである。上を首都高の横羽線が通っていて風情には欠けるが昔も今も賑やかな場所には違いない。
神奈川町本陣跡と青木町本陣跡
横浜氏神奈川区役所
慶長六年(一六〇一)、東海道に宿駅・伝馬の制が定められたとき、市域では神奈川、保土ヶ谷の二宿(戸塚宿はその後の設置)が設けられました。宿場には、幕府より指定された大名・公家・役人などが宿泊・休憩する施設として、本陣が置かれました。神奈川宿には、滝の橋をはさんで、東の神奈川町、西の青木町に本陣ができ、神奈川は石井家(源左衛門)、青木は鈴木家(源太左衛門)が任命されました。神奈川町本陣跡は、現小野モータースあたり、青木町本陣跡は、神奈川公園の東側あたりです。
神奈川公園の前の歩道橋を渡った反対側の幸ケ谷小学校の壁には生徒たちが描いたと思われる、楽しくて可愛い壁画アートがある。その少し先の「宮前商店街」のアーチをくぐる所から、旧東海道は15号線を外れて元々の道幅の道路になった。
洲崎大神
旧東海道の北側、街道から少し引っ込んだところに洲崎大神がある。ここは源頼朝のゆかりの神社だそうだ。静謐な雰囲気に満ちていて、伊勢の内宮を連想させる。
洲崎大神
神奈川宿歴史の道
洲崎大神は、建久二年(一一九一)、源頼朝が阿波国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祀ったことに始まると伝えられている。『江戸名所図会』の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かつての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。
洲崎神社の参道を下り、旧東海道を越えて少し進むと信号がある。その辺りは宮下河岸の船着場だった場所で、生麦事件のイギリス人が上陸したのがここなのだそうだ。
本覚寺(曹洞宗 青木山)
旧東海道を進むと京急神奈川駅に出る。街道は神奈川駅を挟んでいるので、跨線橋を渡り駅の反対側へ下りる。降りたところに本覚寺がある。この辺りは斜面や坂が多い。本覚寺の境内へ参拝するにも長い石段を上っていく。階段の途中に「史跡 アメリカ領事館跡」の石柱が建てられている。また、山門に飾られた獅子の彫刻等(に見える)には下に記述のある白いペンキの跡が所々に残っているのが見て取れる。
本覚寺
神奈川宿歴史の道
本覚寺は、臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(一五三二)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗にあらためた。開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという。領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。
大綱金刀比羅神社と一里塚
本覚寺を出て旧東海道に戻る。横浜市主要地方道83号に出るまで、旧東海道は数キロにわたってまっすぐに伸び、街道の先の先まで見通せる。両側には低いビルが立ち並んでいるが、当時は右手に富士山が見えてさぞ美しい道だったことだろう。左に少し入ったところに大綱金毘羅神社がある。参道は長い階段である。両脇にずらりと並ぶ幟は珍しく藍色だ。
大綱金刀比羅神社と一里塚
神奈川宿歴史の道
この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目にあたり、土盛の上に樹が植えられた大きなものであった。
田中屋・台の茶屋
江戸から七里。広重の浮世絵「神奈川 台之景」はこのあたりを描いているそうだ。当時は茶店や廻船問屋が立ち並んでいたという。台地からの眺望は「品川」の構図と似て、左手に青々とした江戸湾(東京湾)が広がっている。街道には茶店が並び、客引きが旅人をつかまえて引っ張るのどかな様子が描かれている。
この道は京方に向けてゆるやかな上り坂になっている。途中に「田中屋」の看板のかかった古風な旅館風の建物がある。塀の前に「歴史の街 神奈川宿」の案内板が立っている。こちらは、勝海舟の妻のおりょうが33歳の時に一年間、仲居として働いた老舗の料亭だという。ぜひ立ち寄ってみたいけれどお値段も中々に素敵である。
神奈川台の茶屋
神奈川宿歴史の道
ここ台町あたりは、かつて神奈川の台と呼ばれ、神奈川湊を見下ろす景勝地であった。弥次さん、喜多さんが活躍する「東海道中膝栗毛」にも、「ここは片側に茶屋軒をならべ、いずれも座敷二階造、欄干つきの廊下桟などわたして、浪うちぎはの景色いたってよし」とある。「おやすみなさいやァせ」茶屋女の声に引かれ、二人はぶらりと立ち寄り、鯵をさかなに一杯ひっかけている。」上図の「櫻屋」が現在の料亭田中屋のあたりだといわれている。
神奈川台の関門跡
ここよりやや西寄りに神奈川大の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は、安政六年(一八五九)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治四年(一八七一)に他の関門・番所とともに廃止された。
神奈川宿歴史の道
追分
平安時代に建てられ、富士山に通じる人穴だと信じられていた穴があったと言伝えのある浅間神社に立ち寄り、東海道に戻って10分ほど歩くと追分の標識がある。ここは八王子道の起点で、街道は甲州街道の八王子宿まで続いている。
歴史の道 追分
八王子道は、ここより帷子川にそって伸び、町田・八王子へと続く道で、安政六年(一八五九年)の横浜開港以後は八王子方面から横浜へと絹が運ばれるようになり、「絹の道」とも呼ばれています。
保土ヶ谷宿 江戸方見附跡
追分から先、旧東海道は道幅5~7mの松原商店街が続く。現在の八王子街道(国道16号線)を渡ってなおも歩くと江戸方見附の跡がある。
保土ヶ谷宿に到着だ。
江戸方見附跡
歴史の道
「東海道分間延絵図」によれば、芝生の追分から国道16号を越え天王町にいたる途中に保土ヶ谷宿の江戸方見附がありました。保土ヶ谷区郷土誌では、天王町391・393番地先(現在の天王町1丁目11-3付近)にあったとされています。
江戸方見附は、各宿場の江戸側の出入口に設置されているもので、土盛をした土塁の上に竹木で矢来を組んだ構造をしています(このため「土居」とも呼ばれています)。こうした構造から、見附は本来簡易な防御施設として設置されたことがうかがえますが、同時にまた宿場の範囲を視覚的に示す効果を合わせ持っていたと考えられます。
ここ江戸方見附から京都(上方)側の出入口に設置された上方見附までは、家屋敷が街道に沿って建ち並び「宿内」と呼ばれ、保土ヶ谷宿では外川神社付近の上方見付まで19町(約2キロメートル)になります。大名行列が来ると、宿役人が見附で出迎え、威儀を正して進みました。
平成15年3月 保土ヶ谷区役所
江戸方、京方の見附はまた、東木戸、西木戸とも呼ばれた。また大名行列がここで籠先を揃えたので「合鼻」とも呼ばれたそうである。
橘樹(たちばな)神社
江戸方見附の先、右手に橘樹神社がある。文治二年(1186年)創建だという。境内に茅の輪があり、縁起が書かれている。
今は昔
蘇民将来は一人の旅人をお助けしました。旅人は蘇民将来の手厚いもてなしに心をうたれ、「蘇民将来の子孫であれば疫病から必ず守ってやろう」と、茅を束ねて作った茅の輪を手渡し約束しました。この旅人こそ橘樹神社の御祭神「スサノオノミコト」だったのです。茅の輪をくぐり橘樹のの大神様に祓い清めていただき、お健やかにお過し下さい。茅の輪神事
橘樹神社 茅の輪前の案内書き
茅の輪を「蘇民将来」と唱えつつ三回くぐり罪穢を清める
・茅の輪の正面で一礼し、輪をくぐり越えて左へ廻る
・再び正面に至り、輪をくぐり越えて右へ廻る
・更に正面に立ち輪をくぐり越えて左に廻る。正面から本殿に向かう
また、境内には青面金剛(しょうめんこんごう)を含む三体の庚申塔を収めたお堂がある。青面金剛とは、道教をもとにした日本の庚申講の御本尊で、人間の体内にいるとされる三尸(さんし)を押さえる神だという。この三尸の絵はとてもユーモラス(特に下尸)。青面金剛については詳しい説明があった。
◎寛文九年(一六六九年)二月合掌六手青面金剛
金剛としては横浜市最古であり、また六手青面金剛としては県内でも最古の像と思われる。
青面金剛像は、寛文の初め頃から江戸の石工を中心に作られるようになり、やがて地方にも普及した。
◎青面金剛は下二手に弓と屋を持つのが普通であるが、この像は、弓矢のかわりに、羂索と棒を持っている。
赤面金剛は、もと流行病を流行らせる悪鬼であったが、のち改心して病を駆逐する善神になったとされている。
儀軌に示された青面金剛は、三又乾、輪、羂索、棒を持った四手の青鬼であるがこの像はこれに合唱二手を付け加えて善神に変わったあとの姿を表現しようとしたもので青面金剛像の成立道程を示す貴重な像である。
◎青面金剛は必ず炎髪で作られるものであるが、この像は円い髪である。円髪、後頭部の光輪、太く短い棒などは同じ時代に京都土産として各地に持ち帰られた大津絵の影響を示すもので他に類例を見ない。
青面金剛は江戸時代の代表的な像である。
平成五年十月吉日 橘樹神社宮司嶽山 謹書
区内桜ヶ丘在住 郷土史家 大畑洋氏著
「保土ヶ谷の謎と謎解き」による。
桝形
橘樹神社を出たところのすぐ先を帷子川が東京湾に向かって流れ、その上に現在の帷子橋が架かっている。橋を渡りきると相鉄本線の天王寺駅がある。旧東海道はここで天王寺駅の東側を迂回するように鍵の手に折れ曲がって進む。宿場の防備のため、桝形になっているのだそうだ。
旧帷子橋跡
そして、旧東海道沿いに五分ほど歩いたところに旧帷子橋跡がある。帷子橋は広重の「東海道五拾三次の内 保土ヶ谷(新町橋)」に描かれている。帷子川に架かる橋で、当時は高欄付きの御公儀橋(幕府の公金にで改架、修繕する橋)だった。
浮世絵に描かれている帷子橋(新町橋)の先には保土ヶ谷宿の茶屋や宿が立ち並び、「二八そば」の看板が見える。
改修で現在の位置に橋が移動したということで、旧帷子橋の跡地は小さな公園になっている。入口に「江戸日本橋より八里」の新しい道標が建ててある。橋はというと、川に見立てた公園内のアスファルト製の道路の上を、帷子橋を模した幅広い木の模型がぺたりと張り付くように横切っている。
横浜市地域史跡 旧帷子橋跡
登録年月日 平成十年十一月九日
所 在 地 保土ヶ谷区岩間町一丁目五番地
所 有 者 横浜市
登録区域 保土ヶ谷区岩間町一丁目五番地の一部江戸時代、東海道が帷子川渡る地点に架けられていた帷子橋は、絵画に描かれたり、歌や俳句に詠まれるなど、保土ヶ谷宿を代表する風景として知られていました。中でも初代広重の「東海道五十三次之うち 保土ヶ谷」は特に有名です。
横浜市教育委員会
大橋や新町橋などとも呼ばれた帷子橋について、『新扁武蔵風土記稿』の帷子町(保土ヶ谷宿のうち)の項には、「帷子橋 帷子川二架ス板橋ニテ髙欄ツキナリ、長十五間、幅三間、御普請所ナリ」という記載がみられます。
帷子川の流れがそれまでの相鉄線天王町駅南側から北側に付け替えられたの伴い、帷子橋の位置も変わりました。かつての帷子橋の跡地には、現在の天王町駅前公園の一部にあたります。
旧東海道はこの帷子橋跡地のところで二手に分かれて、右へ行くと「古東海道」に合流するようだ。古東海道は旧東海道に並行して保土ヶ谷駅前まで続き、そこで再び古と旧の東海道が合流する。
古東海道、相州道追分と庚申堂
古街道に進路を取り、神明社へ向かう途中、「神明社前」の交差点の角に古東海道と相州道の追分があり、道標と庚申塔が建っている。道標は比較的新しいように見える。相州道はここから厚木まで行く街道とのことだ。旅情を誘う風情ある追分だ。大山道にも通じているようだ。そしてここにも可愛らしい庚申堂がある。道端にポツンとあるのに、千羽鶴やお花がたくさん供えられ、きれいに保全されている。ここもまた、地元の方々が大事に手入れをされているのだろう。
鎮守 神明社
追分で大門通りを右に折れていくと、神明社に出る。鳥居から本堂まで長く続く参道が美しい。こちらでは人形(ひとがた)流しをさせていただける。知らないうちに犯した自分の罪、穢れを取り除く儀式だそうだ。この清流(池)には、境内の地下70mからくみ上げた井戸水を流しているのだそうだ。たくさんの人形が池に浮いている。そしてもちろんお賽銭も投げ込まれている。この神明社は鎌倉時代、伊勢神宮の神領地(荘園の一種)であった。またこの地域は榛谷(はんがや)と呼ばれ、神明社は榛谷の総鎮守であった。「はんがや」が「保土ヶ谷」の由来とする説があるそうだ。
保土ヶ谷駅前公園にて本日は解散となった。
10:00 出発
10:20 熊野神社
10:28 高札場
10:33 浄土宗 成佛寺
史跡 外国宣教師宿舎跡
10:40 史跡 フランス領時間跡
10:41 慶雲寺 浦島観世音 浦島寺
10:51 史跡 イギリス領時間跡
日蓮宗 淨瀧寺
10:54 神奈川の大井戸
10:56 宗興寺 ヘボン博士施養所
11:00 神奈川町本陣跡と青木町本陣跡
11:19 史跡 神奈川台場跡
11:41 宮前商店街(旧東海道)
11:45 ランチ 中華料理 萬新菜館
12:41 史跡 フランス公使館跡
12:50 神奈川駅
12:54 曹洞宗 青木山 本覚寺
史跡 アメリカ領事館跡
13:05 大綱金毘羅社神社と一里塚
13:08 田中屋
13:11 神奈川の台と茶屋
13:13 神奈川台の関門跡
13:45 浅間神社
14:04 追分
14:11 保土ヶ谷宿 江戸方見附跡
14:13 橘樹神社
14:29 江戸日本橋より八里の道標(新しいもの)
14:29 旧帷子橋跡
14:48 道祖神
14:49 古東海道と相州道の追分道標(新しいもの)
14:50 鎮守 神明社
15:12 保土ヶ谷駅前公園
歩いた距離:約14.5 km
歩 数:約20,000歩
消費カロリー:約554 kcal