前回から少し時間が空いた。季節はもう冬である。
乗り間違い
集合場所の川崎駅に行くのにまたやらかした。東京駅で、念のためと思ってトイレに寄ったら、予定の電車に乗り遅れたので、とにかく先発の電車に乗ったら、これが品川止まりだった。とりあえず新橋で降りて、急いで速そうな電車に乗り換える。よくわからないけど、ジャストタイムで到着した。他の人はもうスタンバイしている。申し訳ない。
挨拶とストレッチは、駅の近くの稲毛神社に隣接する稲毛公園。ここには大正時代の六郷橋の親柱が保存されていた。
川崎についてのお話を聞く。川崎は三角おむすび発祥の地だそうで、レシピコンテストなども開催されているそうだ。由来は、紀州から将軍が江戸に入る際に従えてくる大勢の家来の食事を宿場で用意しなければならない。しかし人手が足りない。そこで宿場のエラい人が近隣の農家などに「一升の米を炊いて持参しれくれれば二升の米を返す」とお触れを出し、集まった飯で三角のおむすびを作って将軍の家来たちに配った…というエピソードにちなんでいるのだそうだ。
稲毛神社は平安時代に創建され、この辺りの荘園の鎮守だった。今の社殿は昭和三十八年に再建されたもので、江戸中期に建てられた石の鳥居には、脚のところに当時の有力者の名前が刻まれている。お正月の準備で忙しそうな職にんさんたちの邪魔になりながら、参拝する。ここの狛犬さんは、撫でると体の悩みを解消してくださるのだそうだ。
天地睨みの狛犬 狛犬は左右が阿吽の呼吸をもって鋭い眼光で厄魔を祓うと伝えられています。この狛犬は平成のご大典記念として制作されました。右が天を祓い、左が地を祓うという意味が込められています。上半身についてお願い事がある方は右の狛犬を、下半身についてお願いごとのある方は左の狛犬を撫でてからご参拝ください。
彫刻家 薮内佐斗司氏製作
前回説明を受けた、川崎宿の名士田中休愚が幕府の勘定支配格に就任した際に奉納した手洗石も市の重要歴史記念物として保存されている。
佐藤本陣跡・間口の狭い家並み
東海道へ向けて移動。この辺りは当時砂子(いさご)村と呼ばれた地域で、交差点に名前を留めている。川崎宿の二つの本陣のうち上の本陣と呼ばれた佐藤本陣の跡地に碑が建てられている。周辺のビルは細長い。当時の地割も同じく細長く区画されていたそうだ。これは、宿場の分担金が間口の広さで決められていたために、わざと間口を狭くしたことと、そうして人口を密集させる狙いがあったためだという。
小土路橋
新川通りという大きな通りに小土路橋(こどろばし)という交差点がある。この辺はかつて湿地帯で、その水を排水するための堀川を作った。それが新川堀という用水で、海まで続いていた。そのうち、用水は埋め立てられ、上に道路を通したのだそうだ。
川崎宿京入口・八丁畷
旧東海道は小土路橋のところで鍵の手に曲がり、ここから先はまっすぐ前方まで長く長く続く直線コースとなる。八丁畷である。畷とはこのようなまっすぐな長い道のことを言うのだそうだ。一丁は約109mなので、八丁というと872m。今は見えないが、当時はこの畷の正面に富士山が見えたそうだ。さぞや美しかったことだろうが、今となってはその景観を想像してみるしかないのが残念だ。少し行ったところの電柱に『川崎宿京入口 ここ』という標識が貼られている。京方の見附のあった場所だ。実際は工事中の更地だったが、何か当時にちなんだものが建てられるといいな…と勝手に思う。
芭蕉の句碑
八丁畷の駅の手前に芭蕉の句碑がある。1694年5月に芭蕉が深川から郷里の伊賀へ旅立つ際、門人たちが彼を慕ってここまでついてきた。そして別れを惜しんで詠んだ句への返歌として芭蕉が詠んだ句が残されている。
麦の穂をたよりにつかむ別れかな
奇しくもこの年の10月に、芭蕉は有名な辞世の句を残して大阪で亡くなった。
旅に病んで夢は枯野をかけめぐる
無縁塚
八丁畷駅の踏切を越えていくと、椿が赤い花をつけている。そのわきに無縁塚の慰霊塔があった。川崎市教育委員会の案内板がある。
八丁畷の由来と無縁塚
東海道は、川崎宿の京都側の出入り口(京口土居・現在の小川町付近)から西へ八丁(約870メートル)にわたり、畷といって街道が田畑の中をまっすぐに伸びており、市場村(現在の横浜市)との境界に至ります。この付近を八丁畷と呼ぶようになりました。
このあたりでは、江戸時代から多くの人骨が発見され、戦後になっても道路工事などでたびたび掘り出され、その数は十数体にも及びました。これらの人骨は、鑑定により江戸時代ごろの特徴を備えていることがわかりました。
江戸時代の記録によると、川崎宿は震災や大火・洪水・飢饉・疫病などの災害にたびたび襲われ、多くの人々が命を落としています。おそらく、災害で亡くなった身元不明の人々を、川崎宿のはずれの松や欅の並木の下にまとめて埋葬したのではないでしょうか。
不幸にして亡くなった人々の霊を供養するため、地元の方々と川崎市は昭和九年、ここに慰霊塔を建てました。この場所は無縁塚と呼ばれ、地元の方々により供養が続けられています。平成二十八年三月 川崎市教育委員会
二百年も三百年も前の無縁仏を今でも供養されているのだ。並々ならぬご苦労もされたことだろう。地元の方々に頭が下がる。
市場の一里塚
江戸末期に創業した酒屋だったというセブンイレブンを通り過ぎて少し行くと、市場の一里塚がある。
慶長9年(1604)徳川幕府は、江戸から京都までの街道を整備し、あわせて宿場を設け、交通の円滑を図りました。 里程の目標と人馬の休憩のための目安として、江戸日本橋から一里(約4㎞)毎に街道の両側に五間四方(9m四方)の塚を築造し、塚の上には榎を植えました。ここは江戸より五里目の塚にあたり、市内で最初の一里塚です。明治9年(1877)地租改正にあたり払い下げられ、左側の塚が現存しています。昭和初期まで塚の上には榎の大木が繁茂していました。昭和8年(1933)6月「武州橘樹郡市場村一里塚」(添田坦書)の碑が建立されました。平成元年(1989)横浜市地域文化財として登録されました。
横浜市教育委員会文化財課 財団法人横浜国際観光協会 平成5年3月
快晴だ。天気予報に反して歩いていると汗ばむくらいのお天気だ。
鶴見橋関門旧跡
鶴見川にかかる鶴見川橋を渡ったところに、「旧名称 武州 橘樹郡 鶴見村 三家」と彫られた現代的な細長い石の標識と、「鶴見橋関門〓蹟」(※〓は読めませんでした)と彫られた古い石碑がある。関門とは、あらためて考えたことも無かったが、関所の門のことで良いのだろうか。
(鶴見中央2-19-24)
安政6年(1859)6月、横浜開港とともに、神奈川奉行は、外国人に危害を加えることを防ぐため、横浜への主要道路筋の要所に、関門や番所を設けて、横浜に入る者をきびしく取り締まりました。鶴見橋関門は、万延元年(1860)4月に設けられ、橋際のところに往還幅四間(約7メートル)を除き 左右へ杉材の角柱を立て、大貫を通し、黒渋で塗られたものでした。文久2年(1862)8月、生麦事件の発生により、その後の警備のために、川崎宿から保土ヶ谷宿の間に、20か所の見張番所が設けられました。鶴見村には、第五番の番所が鶴見橋際に、その出張所が信楽茶屋向かいに、また、第六番の番所が今の景品窮境鶴見駅前に設けられました。明治時代に入り世情もようやく安定してきましたので、明治4年(1871)11月、各関門は廃止されました。なお第五番・第六番の御番所は、慶応3年(1867)に廃止されています。昭和63年3月 鶴見区役所
寺尾稲荷道 道標
関門の先に、「馬上安全 寺尾稲荷道」と彫られた道標がある。新しいものである。案内板も置かれている。
寺尾稲荷道 道標
江戸時代、ここは寺尾稲荷社(現・馬場稲荷社)へ向かう道との分岐点で、このように「寺尾稲荷道」と記された大きな道標がたてられていました。寺尾稲荷社は、馬術上達や馬上安全の祈願で知られ、江戸からの参拝者も多かったといいます。また、この道は菊名へ向かう寺尾道や川崎へ向かう小杉道にもつながる、この地域の大切な道でした。なお、当時の道標は、現在、鶴見神社境内にあり、ここにあるのはその複製です。旧東海道
古代から多くの人に利用されていた東海道は、17世紀のはじめ、徳川家康により江戸と京都を結ぶ重要な街道として整備されました。宿場が設けられ、距離の目安として一里(約4㎞)ごとに道の両側に一里塚を気づきました。市場西中町には、この一里塚が片側だけ、今も残っています。海に面して景色が優れていた鶴見や生麦は、川崎宿と神奈川宿の間の「相の宿」としてにぎわい名物、「よねまんじゅう」を商う店や茶屋が繁盛したといいます。
四角で囲まれた7番と番号が振られた「旧東海道」の案内板には横長の大きな「分間延絵図(ぶんげんのべえず)」がついている。文化3年(1806)作られた、五街道の詳細な地図だそうだ。
分間延絵図(ぶんけんのべえず)
https://www.jinriki.info/kaidolist/yogo/bunkennobeezu.html
江戸幕府が東海道の状況を把握するために、道中奉行に命じて作成した詳細な絵地図。
絵図には、問屋、本陣、脇本陣、寺社などが描かれている。また、一里塚、道標、橋、高札なども描かれている。
縮尺は、実際の1里を曲尺の7尺2寸に縮尺して描かれていて、急な曲がり道は、そのまま描いてしまうと地図の天地が長くなってしまうので、実際にはゆるい曲がり道にし、そのわきに追記して本来の曲がり具合を示してる。
御菜八ヶ浦
電柱や看板などに「生麦」の文字が目に入るようになってくる。
生麦という地名の由来は、将軍秀忠がお通りになる際、当時はまだ開発されていなかったこの近辺は水たまりがあって通行しにくかったため、青い麦を刈り取って道に敷いていたことによるという説があるそうだ。
このあたりは漁村であり、将軍家が独裁的に利権をもっていて本芝・芝金杉・品川・大井・羽田・生麦・神奈川・子安の漁場から、炉が6つついた速い船で魚を江戸城に運び、献上したのだという。有名な葛飾北斎の「神奈川沖浪裏」の浮世絵に描かれている、大波の間を縫って走る船は、まさにこの漁船を描いたものだそうだ。
道念稲荷神社
当時人々を苦しめた疫病に対抗するため、萱を束ねたものを蛇に見立てて家々を回り、悪霊を中に封じ込めて海に流した。今でも六月の第一日曜日に行われる地元の行事として存続しているそうだ。ただし、海には流さず、燃やすそうである。
生麦事件
有名な生麦事件だが、現場には看板等は出ていない。今はごく一般的な民家の並ぶ通りである。当時大名行列が通った道も幅7mと広くはなかったようだ。
イギリスはこの事件の賠償金として10万ポンド(約28万両)を幕府に請求、幕府は薩摩藩に2万5千ポンドを請求したが、薩摩藩がこれをスルーしたことから、薩英戦争まで発展したのだそうだ。
生麦事件の犯人は海安寺で公開処刑となり、その弟が兄の介錯を行ったという。
キリンビールの工場の目の前に、生麦事件ゆかりの井戸跡と生麦事件碑が建てられている。
生麦事件碑
横浜市地域史跡
昭和六十三年十一月一日登録
文久二年八月二十一日(西暦一八六二年九月十四日)、勅使大原重徳を奉じて幕政改革の目的を達し、江戸を出発した薩摩藩主島津久光の一行は、東海道沿いの生麦村で騎乗のイギリス人四名と遭遇、行列の通行を妨害したとして護衛の薩摩藩士がイギリス人一名を殺害、二人に深手を負わせました(生麦事件)、この事件は、翌年に薩英戦争を引き起こしました。明治十六年(一八八三)、鶴見の黒川荘三は、イギリス商人リチャードソンが落命した場所に、教育学者中村敬宇に撰文を依頼し遭難碑を建てました。
良泉寺
このあたりにはお寺がたくさんある。良泉寺は海岸山と号し、浄土真宗大谷派に属す。本願寺第8世蓮如上人に帰依した蓮誉が、小机付近の旧街道沿いに草創、慶安元年(1648)入寂したこの寺の第4世良念の代に、徳川幕府より境内地の施入を受け、現在地に移転したと伝えられる。
開港当時、諸外国の領事館に充てられることを快よしとしないこの寺の住職は、本堂の屋根をはがし、修理中であるとの理由を口実にして、幕府の命令を断ったといわれる。
(神奈川区宿歴史の道)
このお寺のすぐ裏手を京急が走っている。
笠䅣稻荷神社
赤い幟がたくさん立てられ、華やかな神社である。平安末期に浦島が丘稲荷さんの中腹に建立され、明治時代に鉄道建設のため現在地に移転したそうだ。子宝安産の大楠がある。名前の由来は、昔、笠を被った旅人がこの神社の前を通りかかるとひとりでに笠が脱げたことから「笠脱ぎ稲荷」と呼ばれるようになったそうだ。
境内に横浜市指定有形文化財の板碑(石板の卒塔婆)があるが、素材は鎌倉時代に流行した緑泥岩で秩父地方産のものだという。軟らかい材質で倒壊しやすためか、両側から石で支えられている。
10:00 川崎駅西口 出発
稲毛公園 大正時代の親柱
10:34 稲毛神社
10:55 砂子交差点
11:00 佐藤本陣
11:06 佐藤惣之助生誕の地
11:05 間口の狭い家並み
11:00 小土呂橋
11:15 富士山
11:20 川崎宿京方見附
11:35 芭蕉句碑
11:40 無縁仏
11:45 果林の街路樹
11:55 市場神社
11:58 江戸末期創業の酒屋
12:00 市場一里塚跡
12:20 鶴見川橋
12:24 関門跡
12:28 延絵図
12:35 立場
13:40 出発
14:00 生麦
14:10 道念稲荷神社
14:18 生麦事件現場跡
14:40 生麦事件碑
14:50 京子安一里塚
14:55 お寺
15:00 新子安駅
15:25 死亡事故全国ワースト1
15:40 神奈川塾江戸方見附
15:50 長泉寺
15:55 笠脱ぎの稲荷
16:00 神明宮
16:08 東光寺
歩いた距離:約16.5㎞
歩 数:約22,500歩
消費カロリー:約620kcal