Kei通信

なるべく健康、なるべく自然体。

東海道を歩く旅 2 泉岳寺から立会川へ

第2回目は、集合時間が10:30と前回より30分遅くてラッキーだ。

最近は少ししっかりしたアウターが着たい気候になってきた。それで今回はアウターにファイントラックのエバープレス・フォトンとトラウトセンサーを重ね着する。靴はトレッキングシューズで街道を歩けるか、試しに履いて出かけてみた。

今日の集合場所の都営浅草線の泉岳寺駅へは、JR山手線の高輪ゲートウェイ駅で降りて、前回の帰り道を逆にたどって行く。一度しか通ったことのない道なのにもう懐かしい気がするから不思議なものだ。

東禅寺

最初の見学ポイントは東禅寺。秋晴れで紅葉しかけた緑が美しい。非公開の池泉回遊式庭園があり、重厚な三重塔がそびえるこの名刹で、文久元年(1861)に起こった「東禅寺事件」のお話を聞き、柱の刀傷などを見る。

東禅寺事件について、改めてウィキペディアを読んでみた。以下は概略である。

英国とは安政五年(1858年)に調印された日英修好通商条約により国交が結ばれ、安政六年(1859)に高輪の東禅寺にイギリス総領事館が設置され、ラザフォード・オールコックが初代総領事に着任し長崎から江戸へと向かった。この際、警備上の問題から幕府が海路での移動を勧めたのにも拘わらず、オールコック一行が陸路を使ったことに対し、当時の尊王攘夷派の志士たちがこれを「外人が日本の国土を穢した」と捉えて、オールコックらが東禅寺に入った翌日にこれを襲撃したのだそうである。浪士と戦ったのは公使館を警備していた旗本や郡山、西尾の藩士たちだったそうで、双方に2,3名の死者が出て、英国人も負傷した。

これはたまらん、ということで、オールコックは公使館を横浜に移して執務したが、オールコックが英国に帰国中の文久2年(1862)、代理公使のジョン・ニールがなぜか?また公使館を東禅寺に移したところ、警護に当たっていた松本藩士の伊藤軍兵衛が自藩の処遇への不満などから公使の殺害を図って警護の任を解こうと企て、イギリス人警備兵2人を殺害し、自刃したというものだ。これが紛糾し、後の生麦事件へとつながって行ったようである。

黙食

東禅寺を出て品川駅まで歩くと、早くも早めのランチタイムとなる。

JR品川駅の広い構内を北から南に、一行はクラブツーリズムの旗を頼りに突っ切って行く。今日のランチは「目利きの銀次」でお刺身定食。食べ過ぎと知りながら今回も完食する。1年半以上に及ぶコロナ禍で、参加されている方々は皆、ソーシャルディスタンスや会食のマナーが身についておられるのと、お互い今日会ったばかりのためもあって会話の声も聞こえず、静かに黙々と食事をする。コロナ対策として百点満点なのだが、会話がまったくないのはやはり異様な感は否めず、少し寂しく感じてしまう。

八ツ山橋

食後は品川駅の時計台に再集合。15分ほど歩いて日本初とも言われる跨線橋の八ツ山橋を渡る。

東海道とJR東海道線を立体交差させるために、明治5年(1872)に架けられた橋。大正2年(1913)、昭和5年(1930)、昭和60年(1985)に架け替えられ。現在の萌黄色の橋は4代目となります。 
日本の映画史に残る名作『ゴジラ』で、ゴジラが上陸の第一歩を印したのは、この八ツ山陸橋でした。 
八ツ山は武蔵台地の突端の丘陵で、地名は海岸に突き出た岬が八つあったことに由来します。

しながわ観光協会

とのことで、そのあと立ち寄った案内板『ようこそ品川宿へ!東海道品川宿まち歩きマップ』の地図を見ると、八ツ山橋のところにも火を噴いているゴジラの可愛いイラストが描かれている。

品川宿

広重の浮世絵「東海道五十三次之内 品川 日之出」は、大名行列が右手の御殿山の下を通りすぎるところを描いているそうだ。左手は東京湾。茶店が立ち並ぶ。「あなご茶漬け」が名物だったようだ。

さて、八ツ山橋を過ぎたあたりからが品川宿の入口のようで、車一台がやっと通れるくらいの細い道路に『旧東海道 品川宿』の標識が規則的に配置されているのに気が付く。

鯨塚・利田(かがた)神社

少し行ったところに鯨のモニュメントや遊具を置いた小さな公園がある。この地の浜で大鯨を捕獲し、将軍がご覧になるほどの騒ぎだったことに由来するそうで、近くの神社に『鯨塚』が祭られている。

利田神社は、江戸前期に沢庵和尚が弁財天(洲崎弁天)を祀ったことが始まりと伝わっています。もともとは旧目黒川の河口の海に突き出た砂州に祀られていた弁財天で、江戸名所図会や歌川広重の浮世絵にも描かれています。明治に変わり利田神社となり、現在の祭神は市杵島姫命。利田の名は、当時この辺りの開発に尽力した利田利兵衛の姓から取ったものです。

境内にある鯨塚は、江戸を驚かせた三大動物の一つ「寛政の鯨」の骨を埋めた上に建てられた供養碑です。寛政10年(1798)5月1日、品川沖で体長九間一尺(約16.5メートル)、高さ六尺八寸(約2メートル)の鯨が現れ、品川の漁師たちが捕獲しました。この大鯨は江戸中の評判となり、11代将軍徳川家斉が浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で上覧されたほどの大騒ぎとなりました。 
鯨塚碑の正面には谷素外の俳句「江戸に鳴る 冥加やたかし なつ鯨」が刻まれています。 
東京に現存する唯一の鯨碑です。

しながわ観光協会 利田神社・鯨塚より

数年前に捕鯨の国際会議が日本で開催された際、反捕鯨国の参加者や反捕鯨団体を東北にある鯨神社に案内した時のエピソードを思い出した。さんざん日本を叩いていた面々が、捕鯨国の日本が江戸時代から現代まですべての鯨をこのお寺に祀り、戒名を与えていかに鯨を大切に扱っているかということを知り、その後の会議の雰囲気が一変したという話。

利田神社を出たあとは、品川宿の本陣跡地の公園で休憩を取り、品川神社へ向かう。

品川神社

品川神社は文治三年(1187)に源頼朝が天比理乃咩命(あめのひりのめのみこと)を迎えて海上の交通安全と祈願成就を祈ったのが始まりだという。

正面には恵比寿様がニコニコと手を挙げてお出迎えくださっている。龍の彫刻の施された鳥居をくぐって石段を登っていくと、左手に富士塚なるごつごつの塚が築かれている。霊峰富士を訪れる余裕のない庶民に疑似体験を提供して、富士山の霊験にあやかろうという趣向のようだ。登山道?の鳥居をくぐって、これは楽勝でしょうよ、と思いながら登り始める。一合目、二合目・・・と標識が置かれ、15メートルあるという頂上近くまで行くと、急傾斜で細い切り立った岩場になる。反省だ。意外や、そんなに楽な道ではなかった。気を抜いたら岩場から転げ落ちそうで、結構怖いのだ。しかも、決して若いとは言えない我がメンバーの皆さんは、結構軽々とこの岩場を登っていく。こういうツアーに参加されるだけあって、みなさま健脚ぞろいなのだ。私が一番ヨタヨタしていている感じだ。恐れ入りました。

富士山から降りてくると何やらありがたそうなことが石碑に書かれているが、全く読めないのが残念。

石碑

この神社には板垣退助のお墓があるというので、裏手のほうに回っていくと、大きな墓石が並んでいる。案内板や名言「板垣死すとも自由は死せず」(※佐藤栄作氏の揮毫だそうだ)を刻んだ石碑がある。なぜこんな裏手に?しかも死を穢れとする神社の敷地にお墓があるのはなぜ?とわからないことだらけだ。後でちょっとググってみたら、この場所は元々、東海寺というこの辺りで権勢を誇った広大なお寺の塔頭の敷地だったのが、関東大震災後移転したためお墓だけ残ってしまっているというようなことらしい。なぜ移転するときに、板垣さんを一緒に連れて行かなかったものだろう?

東海寺 墓所

品川神社から15分ほど歩いたところにも、東海寺の墓所が残っていた。沢庵和尚や井上勝、賀茂真淵の墓所などの史跡に交じって、島倉千代子さんの華やかなお墓もあった。お花がたくさん供えられている。流石である。東海寺はずいぶん広いお寺だったらしい。寛永15年(1638)に徳川家光が沢庵和尚のために創建し、広さは15万7千平方メートルもあったそうだから、東京ドームが3.3個。我が家に換算すると1365個分になる。

近くのビルのエントランスに浮世絵や古地図がきれいなパネルにして何枚も置かれていた。素敵な趣向だ。旧東海道に戻って、次は荏原神社だ。ここでも背中に大きなリボンと鯛を背負った恵比寿様がお出迎えくださった。奈良時代の創建だそうだ。この神社の前を流れる目黒川に渡された赤い橋を渡ると、高札がある。「是より南 南品川宿」と書かれている。ここは脇本陣跡で、その少し先の株式会社 製菓実験社の社屋の壁には「品川宿 問屋場跡・貫目改所 跡地」のプレートが打ってある。問屋場(といやば)とは今で言う役場、貫目改所(かんめあらためしょ)は人馬の荷の重さを検査する所だそうだ。

旧中山道の通り沿いには創業宝永八年(1779)という畳の松岡というお店がある。あいにくシャッターが閉まっていた。創業から242年とは、商売を続けるのも並大抵のことではなかっただろう。

品川(ほんせん)寺

次に品川寺に到着する。江戸六地蔵の一つの地蔵菩薩が参道の入口でお出迎えくださる。イケメンなお地蔵様だ。平安時代前期の創建のこのお寺は品川区最古のお寺で、「品川」の地名の由来となっているそうだ。樹齢600年の大きな銀杏が元気に緑の枝葉を伸ばしている。奥の赤い鐘楼に吊り下げられた梵鐘は、パリ万博のあと行方不明になっていたのがスイスのジュネーブで発見され、以来品川区とジュネーブ市は友好都市となったらしい。

海雲寺

続いて、海雲寺に参詣する。この頃になるとどれがどのお寺だったか、記憶も甚だ渋滞してくる。海雲寺の千躰荒神堂の天井には信徒が奉納した龍の図があり、これを囲むように纏図が描かれている。この歳になって知ったのだが、寺社などの建物や門、鳥居などによく架けられている寺社名などを書いた額や看板があるが、ああいうのを扁額と呼ぶのだそうだ。寺社に限らない。学校やトンネルなどにもある。このお寺の天井の龍や纏も扁額だそうだ。

千躰荒神という神様も初めて聞く。火と水の神様、台所の神様として知られているそうだ。毎年3月と11月に千躰荒神祭があり、護摩が焚かれ、お釜の形のおこしなどを売る出店が並んで大変な賑わいだそうだ。ちょうど私たちが訪れた翌週の週末に今年の秋季大祭が開かれるはずだったが、コロナ禍で中止となってしまったようだ。関係者の方々や楽しみにしていた近隣の方々はさぞ残念だったことだろう。

坂本龍馬 二十歳の像

今回のゴールは立会川駅である。駅のすぐ近くに、坂本龍馬の像が立っている。なぜ龍馬が?と思ったが由来は、ペリーが黒船を率いてやってきた際、龍馬は土佐藩品川下屋敷近くの浜川砲台の警護にあたったのでこれを記念して二十歳の龍馬の銅像を建てたことによるそうだ。

コロナ禍で和風のマスクをして、黄色い下地に「還付金 ATMでは戻らんぜよ! 大井警察署・大井防犯協会」と赤い字で太く書かれたタスキも肩からかけて、地域の警護にあたっている龍馬さんを見ながら本日の行程は終わりとなった。

前回より。脚の疲れが増している。帰りの電車は座れたけど、駅に着いて立ち上がる時、自分の脚ではないみたいな重たさによろめいた。なんだなんだ。歳か。靴か。帰ったらストレッチだ。


10:25 泉岳寺駅出発

11:05 東禅寺(国指定史跡)

11:25 品川駅

11:35 品川駅 時計台

11:40 昼食 目利きの銀次

12:30 出発

12:45 八ツ山橋

12:55 問答河岸後の碑

   土蔵相模跡 利田(かがた)神社 鯨塚

13:15 台場小学校(御殿山下台場跡)

13:30 品川宿本陣跡

14:00 品川神社

14:05 板垣退助の墓

14:30 東海寺 梵鐘

14:50 荏原神社 

15:00 南品川宿 問屋場・貫目改所

15:11 江戸幕府御用宿 釜屋跡

15:15 品川(ほんせん)寺

15:23 海雲寺 

15:34 岩倉具視墓所

16:00 涙橋手前の坂本龍馬像

16:15 立会川 


歩いた距離:約13キロ
歩   数:約18,000歩
消費カロリー:約510kcal

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