三内丸山遺跡などを巡るこのツアーに参加しようと思った当初は、この遺跡一帯が世界文化遺産に登録申請されていることを知らなかった。
どうせ行くなら、日本の歴史をたどりながら全国を旅行出来たら楽しいんじゃないか、と考えていたところへ、タイミングよく旅行会社から送られてきたパンフレットにこのツアーが載っていた。その時、ちょっと遠出がしたかった。それで、まだ行ったことのない青森に行ってみようかなという軽い気持ちで申し込んだ。当初の予定は8月で、夏休みに涼しい青森で遺跡見学っていいよね!という気分だったのだが、緊急事態宣言の延長、延長で、予約を取り直し、取り直し、結局実現したのが11月となった。避暑どころか寒さ対策を考える季節になっている。
さて、こういうツアーに参加するなら事前によく勉強しておくことで、ツアーの楽しさが倍増するだろうということは理解している。しかし生まれついてのケチというのか、事前準備はいつも最低限なうえ、ここ数年間は毎日仕事でヘトヘトの自分には、仕事が終わった後に「本読むぞ!」「勉強するぞ!」というモチベーションがほとんど残っていない。それでもなんとか「縄文文化が日本人の未来を招く」という本を出発前に購入した。が、とても読み切れなかったので、行きの新幹線の中でも読んでいたほど、不勉強なままの参加だった。
また、この文章は記憶を辿りながら書いているので、間違いが多々あることと思います。明らかな誤りがあったらぜひ、教えていただければ幸いです。
一日目
集合
東京駅日本橋口に7:50集合。これがすでに大変だ。早起きが得意になって来た年代とは言え、緊張の夜から、寝不足の朝。犬の散歩は端折れない。5時起きで頑張った。眠い。目を瞬かせながら辿り着いた6時台の最寄り駅に人が多くてびっくりする。サラリーマンの朝は早いのだ。邪魔なスーツケースを申し訳なく思いながら電車に乗る。東京駅日本橋口は最近、ツアーでお馴染みとなってきた。ツアーでご一緒する皆様が想定以上に平均年齢の高い方が多く、どんな旅行になるんだろうと、ちょっと不安である。
新幹線とバスで移動
新幹線で一路、盛岡へ。初めての盛岡だ。未知である。冷麺くらいしかわからない。はやぶさで2時間10分。そんなに速く着くものなのか。いや速い!大好きなスピードメーターで見ていたら、大体時速300㎞くらい出ているようだ。新幹線は時速250㎞、と刷り込まれている私には驚異的なスピードだ。
盛岡からツアーのバスに乗り換えた。東北の東側は中尊寺までしか北上したことがなかった。バスの上から北緯40度を超える。岩手山が大きく行く手に見える。素晴らしい紅葉に見とれているうち、一戸町のレストラン「うらら亭」に到着。
レストラン うらら亭(一戸町)
古民家のレストランである。築150年だそうだ。座敷には座卓が置かれ、板の間にはテーブルが置かれて、普通の民家の雰囲気である。通常提供されているのはパスタやカレー、洋風の一品料理などのようだが、この日は直径30センチはあろうかというほどの大きな朱塗りのお椀に色とりどりの総菜が盛り付けられた、見た目も楽しいお昼ご飯をいただいた。自家製の野菜を使った、手の込んだ家庭料理で、前に座った方が「あら、この鶏肉生焼けね。赤いわ」とおっしゃって残した鶏肉など、食べてみれば絶品にちかい美味しさだった。デザートもついて、お腹いっぱいだ。
このお宅には座敷童がお出ましになるそうで、床の間におもちゃやらお菓子やらにぎやかにお供え物が置かれている。座敷童がいる家は反映し、座敷童を見た人には幸福が訪れると言われているのだそうだ。腹ごしらえをした後でお庭の樹齢三百年の五葉松を拝見する。葉が五本ずつ束になっているから五葉松と名が付き、「御用待つ」から商売繁盛の縁起も担いでいるらしい。また、立て看板によれば樹齢が長いことから気の宿るパワースポットでもあり、触れるとパワーがいただけるらしいので、ぐるりと回って、幹に触らせてもらう。
御所野遺跡(一戸町)
縄文時代中期後半 紀元前2,500~2000年年頃の大規模集落跡 世界遺産
うらら亭からバスで20分ほど、同じ一戸町にある御所野遺跡は、広くてよく整備された美しい縄文公園だ。駐車場の先が谷になっていて「きききのつりはし」という名前のトンネルになった木のつり橋を渡る。「ききき」って何?と思うが、なんでも好きな字をあてがえば良いらしい。橋の先は縄文博物館に続いている。遺跡の発掘当時の様子や出土した土器が展示されている。また当時の暮らしの様子を再現した動画がプロジェクションマッピングと合わせて楽しめる。
博物館でざっとガイドの先生の説明を聞いてから、遺跡エリアに出る。広い芝生の先に、低い紅葉の丘陵が連なっている。芝生を取り巻く木々の紅葉もまだまだきれいである。
御所野遺跡は遺跡は馬淵川という川の右岸に位置する舌状の河岸段丘にあり、幅120m、長さは500m、全体で7.5ヘクタール、平地部分の広さは約6ヘクタールあり、大きく「東むら」「中央むら」「西むら」のエリアに分かれている。
「東むら」エリアには、復元された竪穴式住居が数件ある。建物は大小合わせて200棟確認されているそうだ。住居は低い三角錐の屋根で地面まで覆われ、上まで草に覆われている。私のイメージとは随分違っていた。内部ははログハウスのように太い柱と梁が組まれ、一段低く掘り下げた土間に炉が置かれている。なかなか快適な住まいに見える。説明してくださる地元のガイドの方の方言の混ざった語り口も味がある。所々、わからなかったりするものの、青森にいる!と実感したりする。
中央むらに移動する。ここには真ん中に石を配した広場があり、これを囲むように竪穴や掘立柱の建物が配置されている。広場は墓地だったようだ。配列した石には意味があるのだろうが、見ただけではわからない。奥にはたくさんの石器や土器が出土した盛土遺構もあった。
西むらには保存状態の良い焼失住居があり、発掘調査に頗る役立ったらしい。この場所で、復元した住居を使った火災実験を行った結果、竪穴式住居の上屋が垂木に枝を乗せた上に土を盛った構造だということが推定されたのだそうだ。
ところへ、予期せぬ黒雲から雨が降り出した。あっという間に雨が叩きつけてくる。新幹線で、隣の席の方が「今日は雨が降るかもしれないのよね」とつぶやかれていた。どこの予報だったのだろう。私のiPhoneはそんなことをまるで教えてくれず、終日好天の予報だった。不意の悪天候にそれなりの雨具は準備してきたが、全部バスの中だ。急な雨には全然間に合わない。急いで全員、近くの東屋に避難する。みんな、雨に濡れてワタワタしているのだが、ガイドさんは関知せずといった風情で、縄文時代当時の生活について語り続けてくださっている。シュールというのか、流石というのか。
添乗員さんが人数分の傘を持ってきてくださったので、博物館に戻り、展示物を見て回る。弓矢、矢尻、アスファルトの付着した土器や縄文人の描かれた土器、土偶、装飾品などがたくさん展示されている。「鼻曲がり土偶」が有名なようだ。ここ一か所だけでも十分なほど、縄文の文化や暮らしに触れ、付け焼刃の知識を一気に詰め込んだ。
是川遺跡(八戸市)
縄文時代前期~晩期 紀元前4000~300年頃の遺跡 世界遺産
1時間ほどバスで移動し八戸市に入り国指定の史跡「是川遺跡」に到着する。ここは大正から昭和にかけて、地元の泉山兄弟によって発掘された遺跡で、5千点を超える遺物が出土し守られてきたそうである。平成に入ってから「縄文の里」として整備された。
八戸市のHPによると、是川遺跡は八戸市南東部、新井田川沿いの台地に広がる縄文時代の遺跡で、広さは約37万6千㎡。一王寺(縄文前期・中期)、堀田(中期)、中居(晩期)の3つの遺跡の総称だそうだ。このうち、特に中居遺跡は縄文晩期の亀ヶ岡文化を代表する遺跡。
私有地という事で、遺跡には入れなかった。また、中居遺跡は復元作業中のようである。遠目に一応寺遺跡?の跡地を見、捨て場になっていた湿地を見学してから、市の埋蔵文化財センター「是川縄文館」まで歩く。ここもまた、大変立派な博物館だ。エントランスを入ると泉山兄弟の胸像が並んでいる。ここの2階「縄文の美」コーナーには、赤い漆で彩色された土器がたくさんある。縄文人がすでに漆を使っていたとは全く知らなかった。現代の生活でも使えそうな移しい佇まいの土器が陳列されている。玉などの装飾品も大変細かく手が込んでいる。縄文人は相当なおしゃれである。土器の表面の文様も洗練されている。
そしてなんといってもここには、国宝の「合掌土偶」がある。国宝展示室の中央に一点だけ置かれている土偶は、体育座りをし、組んだ手を膝に置いて、ユーモラスな表情で何かを祈っているように見える。
特徴 Characterristic
合掌土偶は座った状態で腕を膝の上に置き、正面で手を合わせている形から名づけられました。大きさは高さ19.8cm・幅14.2cmです。縄文部分と情も運を磨り消した部分のコントラストが磨き消した部分のコントラストが装飾効果を高めています。胴部には縦に並ぶ刺突文があります。両足の付け根と膝、腕の部分が割れており、アスファルトが認められます。当時の人々が修復して大事に使っていたようです。頭部などに赤く塗られた痕跡があり、全身が赤く彩色されていたと考えられます。
The name of the Clay Figurine with Clasping Hands “Gassho Dogu” comes from her position; sitting with her elbows on her knees whilst clasping her hands in the front of the chest. It measures 19.8 cm in height and 14.2 cm in breadth. It has a pattern that has a contrast between the cord mark impressions zone and the erased zone, which increases the decorative effect. In front of its trunk there is a vertical line of puncture marks. It`s broken at both sides of the hip joint, at the knees and the juncture between the knees and elbows. And it is recognized that asphalt was adhered to these broken points, therefore demonstrating that the Jomon people at that time repaired and took good care of it. It would have been colored red with red pigment due to the discovery of traces of red pigment on the head and other body parts.
是川縄文館
十和田湖畔のホテル
是川遺跡を出ると午後4時をまわり、だいぶ日も暮れてきた。これから2時間半ほどかけて、十和田湖の秋田県側にある今夜の宿へとバスは向かう。長時間の乗車である。睡眠不足と旅の疲れでこの区間のことを覚えていない。周りの方も大半は眠っていただろう。うとうとしながらバスに揺られてふと気が付くと、辺りはすっかり暗闇だ。何も見えません。いや、道路わきに白めの木々の幹が見えるのだが、それだけ。何やら不安な雰囲気だ。今どんなところを走っているのか。街灯もない道というのは中々東京ではお目にかかれないが、本当に真っ暗な中を走っている。バスの運転手さんはこの暗い道もよくご存じなのだろう。周りの状況がシャットダウンされたままで走るバス。経験したことのない状況だ。
いきなり視界が開けてホテルへのアプローチが見えた。ライトアップされてとても美しい。無事に今日の宿、十和田プリンスホテルに到着だ。
今回は追加料金で一人部屋を予約している。一人の部屋。これに勝る解放感は今のところ他にない。夕食の前に少し時間があったので、十和田湖に面したお庭を散策。暗くて湖との境界線が明瞭でなく、下手したら落ちるんじゃない?って気がするが、湖側は相変わらず暗くて正体を隠しており、ライトアップされたホテルが美しく映えている。
空を見上げると素晴らしい星空が広がっている。真上にカシオペヤ座が見える。関東で見なれたカシオペア座はもっと低い所にある。ああ、北に来たんだなあと実感した。
夕食はフレンチ。この旅でフレンチとは意外だったが、相席になった鍵屋の社長とビールやらワインを飲みながら、美味しくいただいた。
二日目
朝の散策
昨日、ホテルの庭から十和田湖のご来光が拝めると添乗員さんが教えてくれた。6時15分くらいかな~?とのことdだったので、6時にはカメラをぶら下げてまだ薄暗い庭へ、ドアを押して出てみる。
あいにくの曇天。ご来光はどうやらカーテンのような雲の裏側に上っているようで、雲が眩しく白く輝いている。朝見る十和田湖は、広く滑らかな水面が遠くまで広がり、静かな湾のうように美しくて静謐だ。湖面の波模様も繊細で、雲を通った柔らかい朝日を映して輝く様子は幻想的。向う岸の低い山並みは、水墨画かと見える。ここを見に来るだけでも十分だと思える景観だ。湖に沿って遊歩道を歩いて行くと、桟橋があって釣り人が三人。ガイドと思しき一名と、ガイドされているカップル二名。何が釣れるのだろう。ニジマスとかなんかだろうか。
十和田湖
十和田湖は、ヨーロッパ大陸にマンモスがいたくらいの時代の火山活動でへこんだ土地に、縄文時代にさしかかる少し前くらいの時代に起こった十和田火山の巨大な噴火で水が流入してできた二重カルデラ湖だそうだ。八甲田山や奥入瀬渓谷を擁する十和田八幡平国立公園の南側にあって、日本で3番目に深く、12番目に広い湖だ。初めにできた十和田湖カルデラの中に、その後の大きな噴火で中湖と呼ばれる小さいカルデラが前のカルデラを押し分けるように出来た。中湖の両脇は西湖と東湖と呼ばれる。私たちが止まったホテルはこの西湖の湖畔にある。十和田湖全体の周囲は50km弱とのことなので、ぐるっと回ると日本橋から藤沢くらいまでの距離がある。そして私が朝の散歩に歩いたのはほんの50mかそこらだった。やっぱり自然は大きいよな、と思うのである。
朝ごはん
朝ごはんは和洋折衷の定食。初めて食べた深浦町産の「つるつるわかめ」が美味しかった。もずくに似た見た目だが、食べた感じは麺類のようで麵好きにはとても良い。せんべい汁もやさしい美味しさだ。昨日のお昼に始まったこのツアーのごはんは、どうやらどれもとても美味しい。何だろう。普段口にしているものと品書きはそんなに変わらないのだが、旅の気分も手伝ってか、どれも良質に感じる。そして「ごはん」そのものが噛みしめるほどに美味しいのだ。
三内丸山遺跡(青森市)
縄文時代前期~中期 紀元前約3900~2200年の大規模集落 世界遺産
さて、今回のメインである三内丸山遺跡に向けて出発だ。朝は曇っていたけどもうきれいな青空が広がっている。バスは、昨晩真っ暗な中を通った十和田湖畔の道を戻って走っている。やはり相当な山道だった。登るにつれて十和田湖がだんだん低くなって行って、代わりにだんだん遠景が見えるようになる。西湖と中湖、中湖と東湖の間の岬が一望できる。想像よりよほど広い。西湖を4分の1周ほど回ったところで、十和田湖とさよならして、100キロ離れた青森市まで1時間半くらいのドライブである。
三内丸山遺跡は津軽半島の根本、青森市内にある。
昨日から、縄文遺跡のキーワードとして「舌状台地」というのを何度も聞かされている。地形学はほんとに知識がなくて、あとから調べてみた。台地を流れる2本の河川や火山の溶岩流などの浸食を受けて、台地の縁が舌のような形に削られてできるもののようだ。海進や海退の影響が少なく、自然と暮らす縄文時代の人々が生きるには大変良い条件が揃っていたそうだ。
三内丸山遺跡も舌状台地にある。そして日本最大級の縄文集落である。おもに採集、狩猟、漁労によって生活していたが日本海と太平洋が出会う場所に位置することがさらに好条件となって、約1500年間もの間、ここで定住生活が行われていたと言われているのだそうだ。
バスを降りてまず、「縄文時遊館」のエントランスから入場する。この施設を通らないと遺跡に出られない仕組みのようだ。まずは勉強、ということで施設の中の「縄文シアター」「さんまるミュージアム」とガイドの先生の説明を聞きながら、当時の人々の生活の様子を見たり、発掘された展示品を見て回る。正直なところ、知識のないまま聞いているので展示品がどれほど価値のあるものなのかがわからない。ただただ、縄文の人々がこしらえた様々な生活用品が美しいライトの中にずらりと並ぶ光景を見て「すごーい」「きれーい」と思うのであるが、我ながら情けない。「どうやって作ったんだろう」くらいしか思いつかない。ようやくそれらを見終えて、いよいよ遺跡へ足を踏み入れる。遺跡へ続くトンネルの前に遺跡全体のジオラマが配置されている。これを見てもまだ、自分には全体像や舌状台地の何たるかががピンとこない。
外へ出た。快晴である。見渡す遺跡は広い。40ヘクタールの広さがあるという。
先にも触れたが、私は歴史や古代文化について無学だ。いくら何でも何一つ知らないままこの遺跡を訪れては申し訳ない気がして、ここに来る直前、というか前日から当日の新幹線の中でとりあえず、悪あがき的に一冊の本を読んだ。國學院大學名誉教授の小林達夫という方が書かれた「縄文文化が日本人の未来を招く」という本である。そして結局全部は読み切れていないのだが、本の中で「六本柱建物跡」についての解説された件が頭に残っている。
「六本柱建物跡」 は、この遺跡の中で最も有名であり、その遺構を復元した「六本柱建物」が最も人気のようだ。実を言うとこのツアー、当初は8月に参加する予定だった。緊急事態宣言のためにツアーが中止となってしまって11月の回に参加した。そして、8月当時この復元建物は工事中だった。緊急事態宣言のおかげで建物を間近で見ることができたことになる。
六本柱建物跡のホンモノは、復元した施設の向うのドームの中にある。跡なので、発掘された穴が6個、ドームの中に大事に保存されている。とても大事なことはこの6個の間隔が4.2メートルに統一されていて、穴の深さと幅が2メートルに統一されていることなのだという。縄文時代には「縄文尺」というのがあって、1尺は35㎝なのだそうだ。4.2メートルは35㎝の12倍だから、縄文の人々が正確な測量と計算の技術を持っていた、というのが研究によってもたらされた素敵な推論なのだ。
復元施設をどうするかについては、研究者の間で侃々諤々があり決着がつかなかったため、当時の知事の「一番安い方法にしよう」という案が採択されて、今あるような、6本の巨大な柱に3段の屋根というか床というか。。を配置するような作りに決着した。施工はt確か、大林組かどこかの建設会社が担ったそうである。築材には当時を模して栗の大木が使われたが、直径2メートルの栗の巨木は日本にはなく、ロシアあたりから運んできたもののようだ。
ところが、私が読んだ「縄文文化が日本人の未来を招く」の著者の小林先生はこの決着に大反対なのだそうだ。
曰く
この通称6本柱は、3本1列を単位とする2列構造に重要な意味があったのです。つまり、その中軸、東北/南西の方位は、夏至の日の出と冬至の日の入りを指し、1年に2回柱列のど真ん中にダイヤモンドフラッシュの神秘的な光景を演出する設計になっているわけです。また、東の遠景に高森山、西に岩木山の神奈備型を望むことができます。
なお、この6本柱に屋根を架けた高楼風の建物と見る人士が多いのですが、筆者小林は大反対、同意できません。夏至・冬至に合わせている縄文人の思想を重視する見解をあらためて主張します。それ故、公開中の3層の床貼り復元案にも賛成できないのです。
「縄文文化が日本人の未来を招く」小林達雄著 徳間書店
なるほど、それほど明確な事実があるなら、著者の言い分はもっともだと私には思える。もし壮大な天文ショーを目的に建てられた柱だとすれば、復元された建物に取り付けられた3層の床はさぞかし邪魔だろう。試しに2本の柱の間に立ってみたが、夏至でも冬至でもないので、太陽を仰いで軌跡をイメージするにとどまった。
集合時間まで少しあったので、ショップに入る。土偶の模様が施されているTシャツを家族用に買った。
ランチ
この日のランチは、三内丸山遺跡の縄文時遊館の中にある「れすとらん五千年の星」で縄文時代の人々が食べていたとされる古代米の入ったご飯に牛バラ焼きと数種類の小鉢がついた。いつも食べている昼食よりかなり多めですが、すっきりとお腹に収まる美味しいご飯でした。食後はお勧めの「そふと栗夢」も注文。通常の大きさでは食べきれないので、小さめに作ってもらって、縄文時代の味に想いを馳せながら(まあ栗なんだけど)いただいた。
田子屋野貝塚(木造町)
縄文時代前期 紀元前4000年~2000年頃の貝塚を伴う集落 世界遺産
三内丸山遺跡を後にして岩木山を見ながらバスで小一時間走り、次に訪れたのはつがる市木造にある、国指定史跡の田子屋野貝塚。ガイドさんの話をあまり覚えていないのだが、竪穴建物跡2棟と土坑墓3基と女性の人骨が出土されたとのことだ。埋め戻されていて、遺構そのものは見られなかったが、青々とした敷地がきれいに保全されている。
亀ヶ岡石器時代遺跡(しゃこちゃん広場)(木造町)
縄文時代晩期 紀元前1000~300年頃の代表的な遺跡 世界遺産
田子屋野貝塚跡から少し歩いたところに、史跡亀ヶ岡石器時代遺跡があった。遺跡の広さは約39000㎡。遺跡には入れないが、小さな広場があり南面は傾斜地になっていて、落ちると上がって来るのが大変そうだ。子供の頃遊んだ木や草の生い茂る低い崖を思い出した。案内板が立っている。読んでみるとこの沢根という地区の低湿地は、「低湿地の捨て場」と呼ばれている。漆塗りの土器や籃胎漆器(植物質のかごを漆で塗り固めたもの)や石器などが多数出土したそうだ。国の重要文化財に指定された遮光器土偶もこの低湿地から出土したもの。
ということで、案内板の向うに大きな「しゃこちゃん」が立っている。しゃこちゃんとは、「遮光器土偶」からついたあだ名だそうだ。遮光器というのはイヌイットが雪の反射から目を守るための木や皮でできた、いわばサングラスで、中央に横長の細い孔があいている。この遺跡から出土した土偶の目がいかにも遮光器をかけているように見えるので、遮光器土偶という名がついたとのこと。由来を知らなければまずわからない命名だ。
しゃこちゃん像の周囲にはオレンジ色の鮮やかな幟が何本も立っている。
この遺跡も発掘後に埋め戻されているので、私のような不勉強な一般客がここを訪れると、「なあんだ何もないじゃん」とがっかりするのは容易に想像がつく。そんな訪問客の期待を一身に担って建てられたのがこのしゃこちゃん像なのだろう。幟で賑やかに演出をして、この遺跡の価値を伝えようとされているのかと思う。
木造駅(木造町)
バスは少し移動して、JR五能線の「木造駅」へ。
駅舎の外壁に巨大なしゃこちゃんのモチーフが飾られている。いやよくこれを飾ろうと決断したものだと思う。このしゃこちゃんは列車が近づくと目が光るようになっている。駅にお願いすると光らせてくださることもあるようだ。私たちがバスを降り、しゃこちゃんを見上げていると果たして光っている。ガイドさんの威力か?とも思ったが、どうやら列車が入選してくるらしい。切符がなくともホームに出て見て良い言われ、みんなでわらわらとホームに入る。なんだか鉄オタのようだが、実際列車は上下線とも2時間に一本くらいしか走っていないので、かなりレアな出来事らしい。五能線は青森県川辺駅と秋田県東能代駅を結ぶローカル線で、車窓からの風景が美しく人気の路線なのだそうだ。
2両編成の列車を見送り、竪穴式住居を模したトイレをお借りして、バスへと戻る。
垂柳遺跡(田舎館村)
弥生時代中期末 紀元前100年頃の水田跡(国史跡)
バスは田舎館村を目指す。車窓からは岩木山と林檎の木が絶え間なく見えている。1時間半ほど走って、国の史跡、垂柳遺跡に着いた。もう日が傾きかけている。
垂柳遺跡は弥生時代中期の水田跡だ。日本列島の北端の弥生時代の水田跡ということだ。約3800平方メートルもある水田で、区画された遺構にたくさんの足跡が残っているのが発見されている。弥生時代の遺跡なので、世界遺産には登録されていないが貴重な遺跡だ。
遺跡というのは、何か大きな建造物を作ろうという時に調査を行うと発見されることが多いのだそうだ。この遺跡の脇にも、平野を突っ切るように長い国道が建設されている。遺跡のあたりは高架橋になっているが、遺跡が見つかったので、当初の道路計画は変更になったらしい。遺跡の近くの埋蔵文化財センターで説明を受けるため少し移動する。途中に弘南鉄道の「田んぼアート」駅がある。小さな無人駅だが、ホームから田んぼアートが鑑賞できるようになっている。
田舎館村埋蔵文化財センター
田舎館村埋蔵文化財センターは、水田跡の上に建てられている。最初にガラス張りの床下に置かれた田んぼの遺跡を見ながら、教育委員会の方から説明を受ける。土や畔のなかに足跡がみられる。大きさや形から年齢や男女の見分けもつくそうだ。なぜこんなものが残っているのか不思議だが、八甲田山の噴火で積もった噴石物が雨で川に流れ込み、洪水が起こって垂柳遺跡に流れ込んだ。その噴石物を取り除いたら、畦や弥生時代の大人や子供の足跡が出て来たのだという。
続いて、露出した田んぼの跡を歩いてみる。畔は低い。高い田んぼから低い田んぼへ、まんべんなく水が行き渡るように低く作られているそうだ。また田んぼをとりまく用水路の分岐点には穴があけられている。ここに柱を立てたと説明されたように思うが、もはや頭の中で情報が渋滞していて、よく覚えていない。メモを取っておけばよかった。残念だ。
また、ここに展示されている土器には触っても良いものがある。持ち上げてみると、意外に軽い。直に触れることができるという趣向は素晴らしい。また説明してくださった教育委員会の方も実に解りやすくユーモラスな語り口で、飽きずに遺跡のお話を聞くことができて、この遺跡に関わる方々は良いお仕事をされているな、と思った。
南田温泉ホテルアップルランド(青森県平川市)
この日はホテルアップルランドに宿泊。名前を聞くた限りでは何だかちょっと、ヘルスセンター的な、チープなイメージだった。しかも私はリンゴの歯ざわりが苦手だ。香りは好きだが、もしご飯が林檎尽くしだったらどうしよう…などど勝手に想像してため息をついていた。
予想に反して、ここは落ち着いた温泉ホテルである。ロビーで小ぶりのねぷたが出迎えてくれている。
部屋は10畳ほどの広々とした和室で、一人では申し訳ない気がする(割増料金を払っているのであるが)。
今日は早めに到着したので、まずは温泉だ。大浴場でりんご風呂につかる。私の鼻がバカなのか、そんなに香りが立つというのでもない気がしたが、お湯の流れに乗って可愛いりんごがたくさん寄って来てくれるのは楽しいし、離れて行ってしまうと何だか寂しい。リンゴ酸には保湿作用があり、リノール酸は血行を促進し、オレイン酸は肌を柔軟にして乾燥を防ぐ効果があるそうだ。
夕食は一人一テーブルで、ソーシャルディスタンスが保たれている。りんご卯の花、蛸と長芋の酢味噌和え、煮アワビ田楽、豆腐の厚揚げ、きもだし菊花和え、お造り、海鮮の朴葉味噌陶板焼き、牛とガーリックポークのしゃぶしゃぶ、阿部鶏ロースト、ナスのミートソース焼…と盛り沢山だ。利き酒セットを注文して、じょっぱりと八甲田おろしの大吟醸と一緒にいただく。隣の席にツアーで仲良くなった鍵屋の社長がいて、彼女も日本酒を飲んでいる。話をするにはやや離れているが、お酒が回って二人で馬鹿笑いをしながら、にぎやかに食事を楽しんだ。
三日目
朝風呂
若い時のように、いつでもどこでもぐっすりと眠れると良いのだが、早く目が覚める。あさイチで露天風呂に行こうと珍しく思ったのだ。朝5:00は暗い。そして露天風呂に続く廊下は冷え込んでいる。人の気配もしない廊下を歩いて、小さな露天風呂に辿り着く。なんと一番乗りだ。しんとしている。お風呂は広い敷地の表向きに作られているので、木の壁に屋根が掛けられて上の方に空間が空いている。ここは夜は地元の方に人気なのだが、朝は宿泊客しか使えない。朝のほの暗い静寂の中で一人寝転んでお湯に浸かるのは何とも言えない解放感だ。大正時代にでもタイムスリップしたような錯覚がある。
朝ごはん
朝食はバイキング形式だ。やはりツアーで仲良くなった方と互い違いの相席にした。ホテルのバイキングでは、まずパンやベーコン、ソーセージなどの洋食を取ることがない。ごはんの献立が好きなのである。いくらや温野菜、卵、オクラ、山芋、切り昆布の煮物、あおさの味噌汁とおかゆで軽めにすませる。何しろ、毎食毎食ご飯が美味しくて、食べ過ぎている。昨夜は飲みすぎてもいる。部屋に戻り、チェックアウトまでの残り時間は煎茶を淹れてゆっくり過ごす。
バスに乗る前に、ホテルの庭に植えてあるりんごの樹から一人一個、りんごを収穫できるサービスがあった。朝の冷気で冷え冷えのりんごだ。指をかけてちょっと捻ると意外なほどに簡単にりんごが枝から離れる。穫れたて、まん丸なりんごと一緒に、バスが出発する。
大森勝山遺跡(青森県弘前市)
縄文時代晩期前半 紀元前1000年頃の環状列石を中心とする遺跡 世界遺産
今日はよく晴れて岩木山にも雲がかからず、くっきりと稜線が見える。今日は岩木山のふもとを目指して走っている。美しい山だ。この山を見て暮らしている人々が、この山を心の故郷とし、信仰したくなる気持ちがよくわかる。頂上に峰が三つ見えて、「山」の字のお手本のようだ。富士山と比べても引けを取らないように思える。裾野にはリンゴ畑が広々と広がっている。これほど随所に、大規模に林檎が栽培されているとは、想像もしていなかった。また、ポプラも黄色く色づいて綺麗な晩秋の景色をつくっている。
30分ほどで、本日最初の遺跡、大森勝山遺跡についた。外は少し寒い。ダウンをバスに置いて出てしまったのが悔やまれる。
史跡大森勝山遺跡は、標高143~145mの舌状台地にある。縄文晩期(3,000年前)の環状列石や大きな竪穴建物跡がある。説明員の方が待っていて、案内してくれる。遺跡の中央にある環状列石は、直径48.5m、短径39.1mの楕円形に配列されている。遺跡を風化等の劣化から守るよう特殊な加工を施し、推定される当時の配列の通りに川から石を運んできて復元したものだという。当時の組石には、近くを流れる大森川、大石川から運ばれた輝石安山岩が主に使われたのだそうだ。
環状列石という言葉は、このツアーまで全く知らなかった。ミステリーサークルと混同してしまいそうになるのだが、イギリスあたりにあるストーンサークルをかろうじて知っていた程度である。有名なストーンヘンジも、ストーンサークルの一種なのだそうだ。日本の環状列石は、巨石を使ったものではないようだが、「石を並べる」ことに、古代の人々はどれほどの意味を込めたのだろうか。また、それがしばしば太陽の運行に深く関与していて、大地と空と人間がが濃厚に融合していた時代であったことに感動してしまう。
そしてなんといっても、遺跡の西南に位置する岩木山が、この環状列石の開けた視界の先に堂々と聳え、その姿を拝することができるロケーションが見事だ。冬至になると太陽が岩木山の山頂に沈むという。壮大だ。この景観があったからこそ、このちにこの遺跡があったことは疑いようもない。祭祀の場としてこれ以上の場所は考えられないだろう。
どうやら縄文時代の人々も岩木山登山を試みていたようだというお話を聞いた。岩木山に土器を運び上げた痕跡が残っていると聞いたのだったか。記憶が心もとない。もうちょっと記憶力が良ければよかったのに。あとで調べたら、もっと何かわかるだろうか。
この遺跡を訪れて、何か自分が縄文の人々の心に触れることができたような気がした。自然に対する畏怖、畏敬、揺るぎない信頼のようなものを、ほんの僅か、体感できたように思う。その意味でとてもとても、印象に残る遺跡だった。言わずもがなだが岩木山の雄姿に拠るところ大である。
遺跡を出た後は、10分ほどのところにある裾野地区体育文化交流センターで、北海道・北東北の縄文遺跡について説明を聞く。ここにあるパネルは世界遺産に指定された17の遺跡が年代順に並べられて表示してあってわかりやすい。
ランチ(津軽藩ねぷた村)(青森県弘前市)
さて11:00。正直お腹はすいていないが、ランチである。津軽藩ねぷた村にある郷土料理のお店で「晴天のみちのく御膳」をいただく。またしても、どれも美味しい。特に青森県産のAランク米「晴天の霹靂」を釜で炊いたご飯が非常に美味しかった。普段玄米を食している私だが、この白米には参った。帆立の貝焼き味噌、せんべい汁、ゼンマイの白和え、アブラツノザメの鮫団子ともづくの餡かけなど、おかずもどれも美味しい。またしても完食である。何だろう。なぜこんなに青森県のごはんは美味しいのか。
津軽藩ねぷた村は観光客のための施設のようで、お店がたくさん並んでいる。通り抜けるために入ったお店で、一昨日から見かけていたこぎん刺しの小銭入れが目に飛び込む。あまりに可愛らしかったので、時間が無かったが急いで実家の母や姉などにいくつか購入する。自分用には眼鏡ケースを買った。後から知ったのだが、ここは桜の名所、弘前城に隣接していた。
伊勢堂岱遺跡(秋田県北秋田市)
縄文時代後期前半 紀元前2000~1700年頃のの遺跡 世界遺産
ここからは、一路秋田へ向かう。一時間半ほどかけて、伊勢堂岱遺跡に着く。残念ながら、ちょうど冬季で遺跡は公開しない時期に入ってしまい、見学できないので縄文館だけ見学である。ここは縄文後期前葉の4つの環状列石を主体とする国の史跡だそうだ。
縄文館には数々の出土品が展示されている。土偶人気投票なんてのもある。土偶の形状が実に様々なことに驚く。これは、祭祀のためだけに作られたものなのか?あまりにバラエティに富みすぎていやしないか。縄文の人々が、楽しみ競って色々な土偶を作って生活に彩を添えていたのではないのか?そんな風に思えた。
大湯環状列石(秋田県鹿角市)
縄文時代後期 紀元前2000年の環状列石を主体とする遺跡 世界遺産
さて、伊勢堂岱遺跡からバスで1時間ほど。このツアーの最後の遺跡、大湯環状列石に到着する。秋の日がもう長い影を落とし始めている。
この遺跡は大湯川沿いの台地にある。野中堂と万座の二つの環状列石を中心に、掘立柱建物跡や貯蔵庫、土坑墓や森などから形成されている。広い広い、敷地の中に復元された野中堂と万座の環状列石の中心には日時計のように組まれた石が直線状に配置されていて、しかもこの直線は夏至の日に太陽が沈む方向と一致しているのだそうだ。ここもまた、紅葉が美しい。環状列石は、規則的に配置されているようで、不規則である。何のために、どんなふうに、ここに石を配置していったのか。
広い敷地を歩いた後、大湯ストーンサークル館に入る。
ここで見るべきは「土版」なのだとガイドの先生が教えてくださった。掌に収まるほどの大きさのその土版には・・・。私にとって最も衝撃的だったかもしれない。土版にはいくつかの穴が固まって穿たれている。上部の中央に大きな穴が一つ。その両脇に小さな穴が二つ。左中央に三つ。右中央に四つ。中心に縦に五つ。穴があけられているのである。1,2,3,4,5と容易に数がわかる。また、中心の5に1,2,3,4を足すことで9までの数も認められるのだ。(さらに、ガイドさんの説明にはなかったが、5以外の穴の数を足せば10になる。)数字による表記はなくとも、この穴の数で、縄文の人々が数を操っていたことが伺える。なんと、素晴らしい文明だったのだ。縄文は。
盛岡駅
大湯環状列石を後にする頃には、もう日はすっかり傾いて夕刻である。ここからバスで2時間ほど移動して、盛岡についた。盛岡駅では1時間ほど新幹線までの調整時間があり、みんな、お土産に軽食にとてんでにに散っていく。お土産は途中途中で買いそろえていたし、夕食は家で息子が天ぷら蕎麦を用意してくれるとLINEしてくれていたから、ご飯も食べる必要がない。少し広い駅の構内をぶらぶらした後、本を一冊買って、集合場所で読みながら時間をつぶした。
旅行のあと
この短い期間になんと沢山の価値の高い遺跡をめぐったことかと、後から確認してびっくりする。知識はなくとも十分に縄文の人々の生活が迫力をもって目の前に現れた旅だった。縄文の遺跡や文化という切り口で見た時の、北東北がに潜在する貴重な価値。これは、何となく日本の西拠りに重きを置いていた自分には目から鱗の事実だった。また、初めて訪れた青森県の美しさと広大さ。美味しい食事。空と自然。予想を遥かに超えていた。一気に青森のファンになった旅である。
装備 マムート ナイキエアフォース1 ダウン ミレー