午前2時ごろ。雨の音で目が覚めた。こんな大きな雨音はここしばらく聞いていなかったように思う。
今日は登山教室で三浦半島の大楠山に登る予定なのだけど。
集合は逗子駅。片道2時間の道のり。
3時間後には起きて支度をしなければならない運命だ。ただでさえ遠くて気が重いのに、ましてやこの大降りの中を、低山とはいえ登山に行くとはもの好きにもほどがある。
わくわく度ゼロだ。いやマイナスです。キャンセルもありか?
ぼーっとそんなことを考えているうち眠りに落ちたらしく、次に目を覚ましたのは午前5時。スマホのアラームありがとう。
雨の音はほとんど聞こえない。
「よっしゃ」と自分に掛け声をかけて、起き上がる。
昨日焼いておいた鮭をほぐしておにぎりを2個つくり、温かいまま保温バッグに入れた。
雨はずいぶん小降りになっているけど、止む気配はない。眠そうに尻込みする犬を散歩に連れ出し、水たまりをよけながら歩く。犬もいい迷惑だと思っていることだろう。
家に戻って、犬の濡れた被毛をタオルで拭いて、解放してやってから、自分の身支度を整える。
今日は昨日よりもずっと気温が下がっているようだ。予定より少し暖かめに重ね着をする。
ペットボトルの水を飲んで、軽く味噌汁とごはんを胃に入れようと試みる。
いつものことだが、朝6時に固形物を食べるのはつらい。
結局一口でギブアップした玄米と金芽米のご飯を手早く3個目のおにぎりにして、ボディバッグに入れ、ハイキングシューズを履いた。
早朝の電車はすいている。大きなザックを両脚の間に挟んで座席に腰を下ろす。
この、がに股スタイルにも慣れてしまった。睡眠不足なので、少しでもリラックスしたい。
5時間半しか寝ていない割に、ガーミンの睡眠スコアは64とそんなに悪くないが「クリエイティブなタスクや問題解決は難しく感じるかもしれません」とのお告げだ。
ツアーの登山だし、クリエイティブなタスクはないことを祈る。
中央線で東京まで出て、東京から横須賀線に乗り換える。
乗り換えは10分しかないけど、ここでトイレに寄ろうと決意している。
前回まで、登山の朝は必ずと言っていいほどお腹をこわして「行くか止めるか」と迷うくらい、朝の体調が悪かった。
「ほんとは登山、行きたくないんじゃないの」と娘に言われる始末だ。
行きたくないんじゃないの。遅刻しないか、忘れ物がないか、体力が持つか、まだまだ不安が大きいの。
本日は、ネットで買った「赤玉はら薬」をいっぱい持っている。という精神的安定からか、調子は悪くない。
ちなみに、東京駅では「行きたいぞ」と思うといつもすぐ前にトイレが見つかるのが不思議だけど、有り難い限りです。
それにしても、横須賀線のホームは遠い。同じ駅の中で、なんで横須賀線(総武線)はあんなあっちの方にあるのか。ホームに辿り着くと、ほぼ同時に私の乗る逗子行きがホームに入って来た。危ない所であった。
電車の中は土曜の朝7時半なのに、満員だ。うぇー、と一瞬思ったがここは天下の東京駅。9割の人が降りて行った。
逗子までは1時間と少し。さすがに飽きる長旅だ。
東海道を歩いた記憶を辿りながら窓の外を眺めたり、スマホのkindleで読みかけの本を読んだり、足首の体操をしたりして時間をつぶす。鎌倉あたりで、ボディバッグの中でちょっと潰れたおにぎりを、そっと食べておく。
逗子の駅の改札を出ると雨足は強くなっているようだ。
キョロキョロ見回してツアーの添乗員さんを見つけ、名前を申告する。ネームタグや手書きの地図なんかをもらうと、すぐにレインウェアに着替えて待機するように言われる。周りはみんな着替えの真っ最中だ。
私も、10年以上前に屋久島へ行く時に買った古いシルバーのゴアテックスの上下をつける。まだ使えそうなら、しばらくこれで行こうと思っている。
帽子も、ニット帽からノースフェイスのレインハットに替える。
各々でストレッチをしてから、目の前にある京急のバス停に高校生達に混じって並ぶ。登山口まで、路線バスに25分ほど乗って行くのだそうだ。
大きなザックを抱えて揺られていたら、ちょっと酔いそうになった。
さっきのおにぎりが凶と出るか?と思い始めたところで目的地の「前田橋」に着いた。ほっとしてバスを降りる。
山道になる前の一般道には山桜や立派な辛夷などが咲いている。ここはハイキングコースとして人気があるらしい。辛夷の写真を撮りたかったけど、雨なので、大事な一眼は家で留守番だ。
カメラとレンズで大体2㎏はあるから、今日は荷物が軽いのがちょっと嬉しい。
大楠山は標高241m。
登山口からしばらく、上りの階段が続く。丸太の横木は滑りやすく、階段の中央も水たまりになっている所が多いからか、ガイドさんは階段の脇のフカフカした落ち葉の上を歩いて行く。そして、我々初心者はできるだけその足跡を忠実に辿っていく。
歩幅を小さく、太ももを上げて垂直に足を下ろし、なるべくふくらはぎのダメージを抑えるように…と、教えてもらったように一歩一歩を踏んで行くのだが、なにしろ初心者なので、前との間隔を詰めようと急いだり、歩幅が合わずに変なところに足を乗せたりして、よろけたり滑ったり大変だ。
山道に所々肌を見せている黄色い岩は「泥岩」だそうだ。
名前のとおり泥っぽくて水を含んだ表面がヌルヌルだ。完全に滑るやつなのだけど、その上を越えて行かなければ先に進めない。滑らないようにと思うと、肩や腰に力が入ってしまう。木の根っこも然り。まったく気の抜けない登山だ。しかも、じわじわと汗ばむ傍から冷たい雨に体温を奪われて行く感じで、体が温まらない。
昨日までの暖かい陽気は一晩で一体どこへ吹き飛んだのか。
「今日は『修行』ってことだね。低山のうちに雨に打たれる経験ができて良かったね!」
と、負け惜しみ気味に他のメンバーと慰めあう。
このハイキングコースは、普段の土曜日ならハイキングを楽しむ人達でとても賑わうそうだ。でも、この雨ではさすがに人はほとんどいない。雨をものともしないトレランのお兄さん二人とすれ違っただけだ。
晴れていたら気持ちの良い山道に違いないのだが、今日は眺望もなく、滑らないように足元ばかり見ているから周りがよくわからない。
途中で何回か、レインカバーをかけたザックを山道の脇におろして立ったまま水分補給をしたり、おやつを口に放り込んだりして休憩をとる。1時間半ほどで大楠平という開けた所に出た。
ここには高い展望台がある。上まで登ると、白くけむる雨の向こうに湾が見える。相模湾だろうか。ここからは富士山の眺望も楽しめるそうなのだが、今はほぼまっ白だ。
そのまっ白をみながら、20分の休憩時間で鮭のおにぎりを食べる。強めの風が、時折唸りをあげて容赦なく吹き付けて来る。優雅に山ごはんを楽しむアレとは程遠く、咀嚼もそこそこに、水と一緒に急いで飲み込む。風があろうとなかろうと、最近お馴染みの山での早食いの光景だ。
休憩のあとは大楠山の頂上まで15分ほどで到着。これで今日予定している行程の三分の一まで来たのだそうだ。
本来はここから東京湾の方角へ進み、衣笠山を経て衣笠駅に出るはずだったのだが、天候と、我々が初心者であることから、今回はここからもと来た道を引き返します、と添乗員さんから告げられる。
帰り道はさらに風も雨足も強くなって、体が冷えて来たから、添乗員さんとガイドさんが正しい判断をして下さったのがよくわかる。
下りはさらに足元が滑りやすくて覚束ない。気を抜いたらいつでも足を取られてズデーンとひっくり返る状況だ。
ふと気が付くと、私の古いレインウェアの左の裾から、登山用のパンツの裾が5㎝くらいはみ出している。
これではだめだ。裾までしっかりカバーできるレインパンツに買い換えよう…。
そして、なぜか右脚の内側は膝上あたりまで泥で茶色く汚れている。
グレーというかシルバーというか、薄い色の生地だから目立つのもあるだろうけど、歩き方がよっぽど下手なのだと思う(山頂で撮ってもらった汚い足元の写真を貼っておきます)。
なんか情けない気持ちになりながらも、ガイドさんを質問攻めにしたり、みんなと膝のガクガクを比べあったり結構楽しみながらようやく辛夷の花のあたりまで降りて来た。
この頃には、ノースフェイスのレインハットに雨水が浸透し始めて、おでこがなんとなく冷たいうえに、防水能力を信じ切っていたノースフェイスのグローブも左手だけ、雨がしみ込んで重たくなって来た。
どうやら、雨対策を一からやり直さないといけないようだ。
帰りはまた前田橋のバス停から路線バスで、逗子の駅まで戻ることになる。
ずぶ濡れで泥だらけの私たちは、反対方向の屋根付きのバス停やその近辺で、なるべく通行人(ほとんどいなかったが)の邪魔にならないよう気を付けながらザックを下ろし、レインウェアのポケットから小物を取り出し、ごついシューズを履いたまま上下のレインウェアを脱いで、雑にたたんでザックに突っ込み、水滴まみれのザックカバーを拭いて外してこれもザックに仕舞いこみ、濡れていない上着に着替えたうえでやおら傘を差し、反対車線に移動してバスを待って乗るというミッションを黙々とこなした。
道路にお尻を向けて並んで着替えをしている光景は、信号待ちのドライバーの皆さんからはさぞかし奇異に映ったことだろう。
バスを待っている間、ガイドさんがおにぎりを食べているのをみて、私も山仕様のスティックタイプの羊羹をザックのポケットに入れて来たのを思い出した。
冷たい雨の中で羊羹を食べるというシチュエーションは初めてながら、この羊羹、「ここを押す」と書いてあるところを押すと、封を切らずとも中の羊羹がニュッと出てきて、うちの猫のチュールみたいに食べられる仕様になっている。封を切った時の、どうするかいつもちょっと迷う、小さなゴミが出ない。素晴らしい。ぜひともたくさんストックしておこう。
帰りの横須賀線では、同じツアーの違う行動班だった人が隣に座られて、東京駅につくまで山の話で盛り上がった。
さっきまで知らない人だったというのに、山が好きな人であれば話が楽しく続くのがまことに不思議だ。
東京駅で乗り換え、座席に座るとすごい眠気に襲われた。今日の行程は7kmくらいだったが、雨の山を歩くのがいかに疲れるものか、よくよくわかった。今後につながる貴重な収穫だ。
翌日。ふくらはぎがきっちり筋肉痛になった。
おまけだが、実はこの日、電車の往復の移動中はファイントラックのレインウェア、エバープレス・フォトンの上着をフリースの上に重ね着していた。古いレインウェアよりこれを着て性能を試した方が良かったのに…と帰りの電車で思ったけど、もう後の祭り。
下山してから数日後、買うかどうか迷っていたエバープレス・フォトンのパンツを注文して、今到着を待っているところです。